松尾古城(松尾城)と上野屋敷の館 |
私見だが「上野屋敷」の「上野」を考えるに、始め「上野氏」或は「上野守」などの官職名を思ったが、おそらく「上野国」の事ではないか。
真田氏の本家筋である海野氏は上野国に支族を出しているが、真田氏はそうした縁もあって吾妻から沼田周辺まで領土支配を広げたとされる。そうした支配下に在った「上野国」の衆が中心となった根小屋が「上野屋敷」ではと考えるのである。
当地横沢集落などの氏姓調査等の検証はしていないのだが、上野国「沼田衆」が信濃の真田領に知行を宛て行われる例もあり、そうでなくても知行の交錯は在ったものとおもう。
日向畑遺跡(日向の館) |
尾根を周る登山路は狭く、眼下には角間川の流れが見える。
尾根を挟む形の両屋敷と松尾城を繋ぐものとして、おそらく中世当時から存在したものだろう。
尾根先を見守る仏像。おそらく横沢集落を向いているとおもう。
仏像の所から観音堂の屋根が見える。
因みにこの場所の久保家の墓地は下り藤紋だった。
観音堂と久保家一族墓地は大がかりな石積によって土留されているが、古いものであろうか。
どちらにも墓石が建つが、墓地として作られた平地なのか、松尾城大手口の守りとして作られたものであったのかは分からない。
尾根を北へ回り込むように進むと、すぐに久保家墓地があり下方には(5)の平地がみえる。
久保家墓地横には五輪塔の残片らしきものも。
ここの久保家の紋は三つ星であった。
(5)と(3)の間の狭い削平地。
鉄塔の建つ(3)の削平地。
山際には朽ちかけた鳥居と奥に石祠。
(3)の北で道を西に折れたところ。
(2)の平地南側。
(2)の南側入口にある柳の木。「信濃の山城と館」では、この付近に井戸と石積らしき表記があるが藪で確認できなかった。
(2)の入口付近を振り返る。
(1)の平地付近。
視界が開けて、神川対岸の山までの谷間が見通せる立地であることがわかる。
何で知ったか失念したが、真田氏は上州街道の陸運を支配する事で力を強めたとも聞く。その根元を押さえる好位置といえるが、冒頭の「上野屋敷」の「上野」が「上野国」衆の事ではという推測の根拠もこれである。
(1)の平地南側。
奥の墓地は永井家のようだが家紋は確認出来なかった。
(1)の平地北側。
(1)の平地南側の井戸。
(1)から見た西側。
旧菅平有料道路によって地形が変わっているが、道路向こうが「上野屋敷の館」の名称のもとになったとされる「上野屋敷」地籍という。
「信濃の山城と館」の図では、実際には南の角間川近くまでの更に低地までが「上野屋敷」地籍らしく、或は上州街道沿いの関所的な施設が在ったのかもしれない。
旧菅平有料道路南側から見たところ。
左が「上野屋敷」地籍で右土手上が(1)である。
この左手一段下に横沢集落から上州街道が通っていたものとおもうのだが、横沢集落との間には角間川の深い谷があり、さぞ難所だったろうと想像するのだが、そうした要害に「上野屋敷」があるともいえる。
「上野屋敷」が「上の屋敷」ならば「下の屋敷」なども在ったかもしれない。
「上野屋敷」と「上の屋敷」。そして若干の地籍の相違はなにを物語るのか。
久保家と加部家の墓地があったので記す。久保家は蔦紋。加部家は隅立て四つ目紋。
久保氏、加部氏の両家が上州にどれほど縁のある氏族かは調べていないが、久保氏は真田家臣に存在するし、四つ目紋は武田を連想させる。
他に根笹紋系の倉島家の墓地を確認した。古来の城地に関わりの子孫がその地に墓地を築くのはよくあるとは「信濃の山城と館」の宮坂先生の言葉である。
いずれは更に研究を進めたい。
2018、10月初訪
2018、10月「上の屋敷」追記
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