祭神は誉田別尊・息長足姫尊・王依姫命。
創建年代不詳。
浦野川の数百メートル下流の「弓立神社」とも関連性がありそうである。
「小縣郡史」に、弓崎神社
泉田村大字小泉、八幡山にあり。祭神は誉田別尊・息長足姫尊・王依姫命。祭日、十月一日。創建年代評ならず。
ロ碑に奥州の賊屡々叛して止む時なければ、朝廷より鎭撫の官人を置き、其鎭守として八幡宮を勧請す。時に藤原勝海の苗裔出浦某長官たり。 應永十八年八月弓立山又弓楯山の頂にありし社殿を其山の一支峯弓崎山に本遷す。 今尚當時建造の棟札を蔵す。
安永三年三月吉田家よりの文書に舊稱に遵ひ、弓崎神社八幡宮と稱すべきこと見ゆ。 明治六年四月郷社に列す。
同四十一年十月二十七日會計法適用指定。
同四十五年七月伊 勢神社・天白社・神明社・蠶祖社・若宮社・飯綱社・古明神社・泉神社を合併す。
古歌を傅ふ。
弓楯爾ユミタテニ、 矢幡能神曾ヤハタノカミソ、 多知帯志タチハカシ、 陸奥治爾ミチノクシリニ、 出浦廼里イデウラノサト
本殿・拝殿・清殿・神饌殿・幣帛殿・鳥居を具備し、境内二千十六坪。 氏子二百二十三戸。
浦野川の数百メートル下流の「弓﨑神社」は應永十八年(1411)八月弓立山又弓楯山の頂にありし社殿を其山の一支峯弓崎山に本遷すとある。 今尚當時建造の棟札を蔵すというので確かなようである。
すると弓﨑神社背後の山は「弓立山又弓楯山の一支峯弓崎山」ということになる。筆者は未踏だが「弓﨑神社奥宮」のあるところが弓楯山の頂となりそうである。
ロ碑に、朝廷より奥州の鎭撫に官人を置き、その鎭守として八幡宮を勧請。 時に藤原勝海の苗裔出浦某長官たりとロ碑にあるという。
藤原勝海がわからないし、朝廷より奥州の鎭撫の時期もわからないが、奥州藤原氏時代のことであれば平安時代末期のこととなりそうである。
「藤原勝海の苗裔出浦某」と「出浦の里」がよくわからないが、出浦某は村上氏族から出浦氏がでたのと重なる時代と思われるので、官人としてこの地に入った出浦氏が埴科郡の村上氏一族に取り込まれていったと考えられなくもない。
ただ一方で、「弓立神社」の眼前、 浦野川と産川が合流するところは「泉氏旧館跡」と推定されている。平安時代末期から鎌倉期、小泉荘は泉氏の領知するところで、付近一帯のかなり広い範囲であったらしい。
ロ碑のいう時代が確定しないと摺り合せもできないが、同時代の平安末期頃と思われるので悩みどころである。
「弓﨑」、「弓立」を考えるに、「立」は「館」、「弓」は「八幡」、「﨑」は「先」とも解釈できる。清和源氏という泉氏と八幡神、泉氏初期の居館と浦野川を挟んで弓立神社があるというのはどう解釈したものか。
両社の祭神も「弓﨑神社」の誉田別命と「弓立神社」の応神天皇は、そもそも異名同神である。
以上から、「弓﨑神社」は「弓立神社」の奥宮で、はじめ弓立山頂にあっものが後にロ碑にあるように現在地に遷されたものではないかと推察される。
鳥居。
神楽殿か。
写真から奥宮があることがわかる。
拝殿。
脇殿。
本殿。
境内社。
境内。
境内奥の招魂社。
2020、2月再訪
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