祭神は天照皇大神、應神天皇、十二大神を祀っている。
創立由緒等は不明。築地村の産土神で、明和三年(1766)に再建され、万延元年 (1860) に弓立神社と改めているというが旧称は不明。屋根の梶の葉紋から諏訪社を称した時期があったと推測される。
「弓立神社」を考察するに、浦野川の数百メートル上流に「弓﨑神社」があり、関連性から何かしら指摘できそうである。
「小縣郡史」に、「弓﨑神社」は應永十八年(1411)八月弓立山又弓楯山の頂にありし社殿を其山の一支峯弓崎山に本遷すとある。 当時建造の棟札を蔵すというので確かなのだろう。
すると弓﨑神社背後の山は「弓立山又弓楯山の一支峯弓崎山」ということになる。筆者は未踏だが、おそらく「弓﨑神社奥宮」のあるところが弓立山ということになりそうである。
同誌に、「弓﨑神社」は朝廷より奥州の鎭撫に官人を置き、その鎭守として八幡宮を勧請。 時に藤原勝海の苗裔出浦某長官たりとロ碑にあるという。
藤原勝海がわからないし、朝廷より奥州の鎭撫の時期もわからないが、奥州藤原氏時代のことであれば平安時代末期のこととなりそうである。
また、 出浦の里とある。
一方、「弓立神社」の眼前、 浦野川と産川が合流するところは「泉氏旧館跡」と推定されている。平安時代末期から鎌倉期、小泉荘は泉氏の領知するところで、付近一帯のかなり広い範囲であったらしい。
「弓立」を考えるに「立」は「館」、「弓」は「八幡」、「﨑」は「先」とも解釈できる。清和源氏という泉氏と八幡神、初期の居館と浦野川を挟んで弓立神社とは都合がよすぎるだろうか。
同時代頃の「藤原勝海の苗裔出浦某」と「出浦の里」の説明がつかないが、出浦某と村上氏族の出浦氏との関係もいろいろ想像することはでき、出浦の里といわれたことがあってもおかしくはない。
以上の理由から持論を述べると、「弓﨑神社」は「弓立神社」の奥宮で、後にロ碑にあるように現在地に遷されたものかもしれない。
祭神も「弓立神社」の応神天皇と「弓﨑神社」の誉田別命と、そもそも異名同神である。
鳥居。
手水鉢。
拝殿。
本殿。
境内左の石段上には三つの石祠とくの字型の石が祀られており、うち石祠の一つは金毘羅大権現とあり、一つは「小縣郡史」にある蚕影社と思われる。
2020、2月再訪
0 件のコメント:
コメントを投稿