千曲川にせり出した尾根の先端部は岩鼻の断崖で、古くから埴科郡と小県郡の堺で交通の難所であり関が置かれた要所でもあった。
坂城側の麓には「鼠」の地名があり「不寝見」のことと考えられ、古代に於ける不寝番が置かれたとも言われている。その岩鼻の断崖上に築かれた和合城には狼煙台が置かれたとされ、後に村上氏が利用したものとも考えられている。
天文二十二年(1553)村上氏が越後に落ちると、武田方の臣、多田氏が守ったと伝わる。
天正十一年(1583)には、上田城を築く真田氏と上杉氏が虚空蔵山を争っているが、和合城を含むと思われている。
上田市下塩尻方面から見た岩鼻の断崖と和合城。
右の少し髙い嶺は陣馬鳥越山で非常に見晴らしが良く、そのまま稜線を東にいくと虚空蔵山、更には太郎山山系に通じる。陣馬鳥越山の南下には物見城もあり、20近くあるという村上連珠砦の一つである。
岩鼻の往還には、北国街道「六寸街道の切通し」にあたる道が中世から使われていた可能性もあるが、山中を越える道もあったはずである。
現在の登山道がそれにあたるかわからないが瓦礫が見られるので、鞍部の辺りには木戸があったのではないか。
南下の先端部が城域で北方の尾根には陣馬鳥越山や菖蒲平(勝負平)の地名があるが、その辺りにも小屋掛できそうな平地が見られる。
真田氏が上田城を築いたとき上杉氏と奪いあった虚空蔵山とは、この山系一帯の城砦の総称とする説があるが、交通の要所である和合城か或いは麓の陣所である可能性がある。因みに虚空蔵山争奪戦で上杉軍は観音坂城に陣所を置いたとも言われている。
大堀切。
四の郭側の土塁。
四の郭。
「信濃の山城と館」にある四の郭と三の郭の堀ははっきりしないが両側の堀、土塁の段差から推定出来る。
三の郭。
三の郭とニの郭の間の土塁跡。
写真手前がそれだが、堀を埋めるのに崩されたのか一見わからない。奥の高まりはニの郭の土塁。
三の郭とニの郭の間の堀跡。
土塁を崩して埋めれたのか一見わからない。
脇郭。
ニの郭。
奥は本郭の土塁と石段。
ニの郭北側は土塁が廻るが「信濃の山城と館」にある南側の土塁は無いのだが。
本郭への石段と崩れた石積。
本郭。
周囲は石積の土塁に囲まれており、特に東側は幅5mの高台になり「信濃の山城と館」では一つの郭として扱われている。
狼煙台が置かれたところがどこかわからないが、以下のように確かに見通しはよい。
本郭から和合城全貌、陣馬鳥越山方面。
上田市街地方面。直接他の「村上氏連珠砦」群との連絡は難しそうだが、東御市まで見通せる。
上田市塩田方面。半過の岩鼻、須々貴城は眼下。遠く塩田城のある独鈷山。
坂城町と更級方面。葛尾城、三水城・孤楽城、出浦城、荒砥城、冠着山、塩崎、稲荷山まで見通せる。鞍部がら和合城城域の反対側を少し歩いてみた。
急坂にかかる所にある祠。
菖蒲平(勝負平)。
陣馬鳥越山。
陣馬鳥越山から、高津屋城と足下にケムリの城、さらに下に燕城がある。
陣馬鳥越山から、燕城付近と上田市街地。
陣馬鳥越山から、上田市塩田方面。
坂城町と更級方面。稲荷山まで見通せる。
2019、12月初訪
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