平成元年2代目がマツクイムシに侵され枯れ、平成4年に切り株の隣に3代目が植えられた。現在の松は4代目で平成27年10月に植樹したものという。
この付近には「鉄砲馬場」や「のち産いけ」があったが、富士見台団地の造成でなくなった。(「伊勢山歴史散歩」より)
「のち産いけ」とは何であろう。
武田信玄ゆかりの鐘かけの松
天文十九年(1550)、武田信玄が村上義清の山城だった砥石城を攻めた際、本陣近くにあった松の枝に鐘をかけて鳴らし進軍や退却の合図にしたため、鐘かけの松と言われるようになった。
この松は4代目で平成27年10月に植樹したものです。現在の松は平成27年に植えられた4代目で、高さ5mほどのアカ松。
すぐ近くの地蔵尊。謂れは分からない。
明治14年発行の「長野県町村誌東信篇」には鐘かけの松の北側に7カ所の旗塚の位置が記された絵図が掲載されており、上田市伊勢山自治会の住民有志がつくる「砥石伊の会」はこれと同じ位置になるよう10メートル間隔でに幟旗を立てたという。
「鐘かけの松」近くの旗塚跡の幟旗。
旗塚は上田市富士山の「砂原峠旗塚」、他に真田の「打越城旗塚」、武石の「山の鼻砦旗塚」などが知られている。
また筆者が把握している旗塚だと思われるものに、望月城砦群の「胡桃沢嶺砦」から南の山尾根一帯に30~40もの数が見られる他、佐久市矢嶋と布施の間の「虚空蔵城(台城)」近くに10ほど、同じく「細久保物見」近くに2つばかりの推定旗塚が見られる。
これらは、勢力の境界に関わるものなり、また山道などの要衝にも関わるものにも思える。
鐘かけの松の旗塚を考えるに、信玄の砥石城攻めに関わるものとみるのが自然だろうか。上田原の旗塚地籍は上田原合戦で村上側(武田軍とも)の旗を立てたところと云うので、軍容を示す目的の旗塚があったことになる。
砥石城攻めで武田軍が陣を置いた場所は屋降を含め、玄蕃山陣場や本原櫓城など推測されているが、ここも陣の一つが置かれたものであろう。
旗塚跡と砥石城 |
2020、4月「伊勢山歴史散歩」よりを加筆
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