2019年4月17日水曜日

矢花の屋敷@上田市上野字矢花

矢花の熊野権現
「上田市教育委員会 2002 『法楽寺遺跡 第1分冊(本文編)』上田市文化財調査報告書95」
を閲覧するに、第二節 歴 史的環境の中「…中世では、城館跡が確認されている(中略)染屋台上にも新屋の矢花の屋敷・野竹の広野辺神社周辺の城館・岩門の城館・染屋の染屋城・国分の古城など城館跡とされるものが多くみられる。これらは、台地の縁辺部に立地しており、周辺には古くからの集落が営まれている。」とあり、遺跡位置図をのせている。
筆者は「岩門の城館」と「染屋の染屋城」は既知だったが「新屋の矢花の屋敷」「野竹の広野辺神社周辺の城館」「国分の古城」はこれが初見である。
同書該当の文章の参考文献に、「上田市教育委員会 「条里遺構分布調査概報一染屋台地区一」1973 」・「上田市教育委員会 「上田市の原始・古代文化」1977」・「上田小県誌刊行会 「上田小県誌 第六巻歴史篇上 (一)考古」1995」 ・「上田市教育委員会 「大日ノ木遺跡」2002」を挙げているのでこれらの中に記載があるものと思われる。
ここでは中世城館跡と推定される「新屋の矢花の屋敷」をとりあげる。

鴻呂館地籍の新屋古墳から見た矢花地籍。
南西には染谷台地がひらけ、この背後は虚空蔵山で中世の山城、伊勢崎城(虚空蔵城)跡がある。
「矢花」の字地名がこの山城からきているのか、それとも他に近くの城館からきているのかは分からないが、この地に城館に関わる何かが在ったことを想像させる地名である。

東の神川対岸には矢沢城があり、中世には海野氏の影響下で矢沢氏の支配する地域である。西には長島の堀の内があり、やはり海野氏の影響下で小宮山氏の支配するところといわれている。
後に一帯は村上氏の支配するところとなり、さらに後には武田氏の影響下で真田氏の支配となる。
「新屋の矢花の屋敷」が中世の館跡であるなら、これらの時代のどこかということになるが伝承等の記載文書はなさそうである。

染谷台地は信濃国府跡推定地とされているところで、台地の条里水田を潤している新屋堰は古く、一説には奈良時代とも云われている。
新屋堰は伊勢山の東方川久保橋下で神川から取り入れられ、元々は虚空蔵山の東を迂回し字鴻呂館に通っていたようで、まさに「新屋の矢花の屋敷」を取り巻く用水路は古い新屋堰ではと推測する。
それは、「新屋の矢花の屋敷」が新屋堰の管理支配に関わるものである事を示唆するもので、染谷台地の支配者にとって非常な要地であるといえる。
そういった意味で、上限は分からないが真田氏時代、さらに江戸期を通じて「新屋の矢花の屋敷」は在ったものと思うのだが、江戸時代の伝承くらいは残ってないものだろうか?

以下筆者の考える推定地となる。
用水路が北、東、南をコの字に取り巻いている領域が推定地と思われる。推定地の西側は高く緩い斜面であるが、境界は南北に走る道の北に土塁跡と思われる築地があるのでそこが北西隅となりそうで、南北に長細い屋敷地と考える。
図ではわかりにくいが、推定地中央付近の畑地のなかに社が建っており石垣で一段高くなっている。道が無く近くで見れていないが、「神科を歩こう ―上田市神科地域文化財の現況― 」(2013(平成25)年 9 月 20 日発行)によると熊野権現であるようである。熊野権現社の北側に髙い石積が確認できるが屋敷に関係するものか。

立地的に新屋堰の管理支配に関わる意味合いが高いとおもわれ、神川右岸段丘の岸崖近くに立地するのも、おそらく防御的な意味合いよりも対岸への渡し場が近くにあって、それの監視が目的のものとおもうのだが、渡し場が近くにあったという確認はしていない。

要害性が低く、城館と言うよりもやはり屋敷に近いものであったろうと思われ、城館跡として「岩門の城館」と「染屋の染屋城」がよく知られるのに対し「新屋の矢花の屋敷」が知られないのは、以上のような理由の為かもしれない。

神川の段丘上が矢花地籍。

西からきた用水が南に折れる。矢花の屋敷北東隅と思われる。

用水に添った道は北面に当たるとおもう。奥は推定土塁跡。

推定土塁跡が北西隅か。

そして土塁脇の南北の道は屋敷の西面になるか。

南北の道の南側。
道の西側が微高地に見えるので北側の推定土塁は南北に続いていたのかもしれない。

南側用水路に添った道は屋敷の南面と推定される。
上の写真は東南隅。下の写真は西側を見たところ。
用水路は道路に沿って南に折れて新屋、野竹方面へ向かっている。

北からみた東の日と東南隅。屋敷の東面となろう。
道の東側は若干の平地ののち神川段丘の斜面となる。

東南隅の奥の畑地には矢花の七つ塚古墳群があり、弥生時代の矢花遺跡の中心地という。

東側の道から見た屋敷の中心と推定される付近の畑地と熊野権現。
熊野権現社の創立不詳。昭和12 年茅葺から瓦葺に葺き替えた(現 在はトタン葺)という。
 熊野権現社へは西側の道からはいれる。
社北裏の石垣と石祠。

西から見た矢花の屋敷推定地。

筆者は上田市教育委員会の「埋蔵文化財発掘調査報告書」等をはじから読み漁っているわけではないので、或は「新屋の矢花の屋敷」の認識について補正・訂正などあったかもしれない事を承知しておきたい。



2019、4月初訪
2019、4月熊野権現社の行追記


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