茂沢城と奥が尾野山城 |
「長野県町村誌」に「依田氏城址」、城山・城脇・馬場・明賀の字があり、石塁が現存し「笹谷の城」と云うという。又、皇大神宮が祀られることから地元では「伊勢山の城」とも云う。此城は笹谷明賀の築くところで、故に笹谷畑・明賀の字があるのだという。後に依田新右衛門の居し所となり、布引山永禄の棟札(1558) 、生島足島神社起請文(1567)にその名があるという。
しかし、永禄の棟札、生島足島神社起請文に依田の名は確かにあるが、この依田新右衛門であるという確証はよくわからない。
似た名に「高白斎記」の天文十八年(1549)「三月十四日土用。七百貫文の御朱印、望月源三郎方へ下され候。真田渡す、依田新左ヱ門請け取る。三月九日己卯、芦田四郎左ヱ門春日の城を再興。」とあるが関連は不明。いずれにしても武田時代のことになるか。
西にある尾野山城は海野氏の勢力下にあって尾野山氏が、茂沢城、孫台、三日城などの支城を配置し守っていたといい、天文十年(1541)に武田・諏訪・村上の連合軍によって攻められ落城しており、海野氏は事実上滅亡し尾野山氏は武田氏に従属している。
笹谷明賀は尾野山氏の一族か配下であろうか、或は地名等が残るところから南北朝以前の氏族かもしれない。
明賀池と茂沢城 |
馬場方面からみた茂沢城 |
馬場方面からみた尾野山城 |
尾野山への入口に当たる立地で、規模は小さい城ながら主郭などは丁寧に削平されている様に感じた。
ここから東側に道を挟んだ丘は依田川に面し、「小県郡史」に笹谷城の先端なる小丘とあるのがそれだろうか、長瀬方面への展望から見張りが置かれたと推測するが未調査。
道としては、ここか南の墓地から登ることになっろうか。
入口付近
東側の段郭群。
主郭。
主郭西側奥の祠。木製の胴に石製の台座と屋根。皇大神宮と思われる。
本来の胴は石製であったか、石製の台座と屋根を外から持ち込んだものか、ちぐはぐなのはどういった理由であろう。
主郭南側の虎口状のところ。
主郭西北隅。
微かに土塁跡と、「信濃の山城と館」に何らかの印があるが何もなかった。
西の三連堀切。
綺麗に残っていた。
三連堀切の西側の平地は緩い傾斜がついている。
西隅の土塁と堀切。
藪で詳細不明。
西隅の土塁と堀切のところ。
西隅から南の道路を見る。
意外に傾斜が緩い。
道路から堀切も確認できる。
南の道を東側から。
南方に対する丘。
南側の防御が弱いかとも思えたが、主郭の南下あたりは高台になっているようで、南の丘も含めて平地一帯も防備域と捉えてよいものか。
南側墓地への道。
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