つまり孫台は、海野氏勢力下時代の尾野山城の支城の一つであるということである。
頂上は結構な広さの東西に長い平地で、「長野県町村誌」に「…中に石塁あり、古墳三基、又五輪塔あり、佐久小県の方言、古墳ありし地を台と称す。…景色殊に佳なり。」
確かに東隅に三基の古墳と五輪塔があるが、五輪塔は一番大きな古墳の北側にある小さいものであろうか。石塁とは平地に段をつくっているものを言っているものか。
「信濃の山城と館」は、「…いま墓地になっているあたりに、古墳を利用した物見。狼煙台などの尾野山城防衛のための簡単な砦があったものと思われる。」としている。
茂沢城と孫台は、単純に尾野山城の東方面の押さえとしても理解できる。面白いのは尾野山城、茂沢城、孫台は互いに目視できるが、三日城だけはどれとも目視することが出来ない立地であることで、おそらく三日城には尾野山の台地を登り降りする道を監視する目的があったものか。
そう考えると、尾野山の南側はともかく、台地繋がりである西方面の防衛ががら空きなのは納得できない。須川湖周辺に小牧城以外の何かしらの防衛施設があったと思われるがどうであろう。
茂沢城から見た孫台。音楽村の裏山になる。
尾野山集落と孫台を分断する下ノ池と下ノ池北側の沢の谷。
孫台東側。
孫台西側。
孫台東側には三基の古墳があるが詳細は不明。
天慶2年(九三九)関東を平定した平将門は尚勢力を保つ従兄弟の平貞盛が上京するのを追って信濃路に入り当高台(俗称 高孫台)を背に北向の斜面に敷陣する貞盛勢を信濃国分寺から千曲川を渡り攻め登り激戦の上敗走せしめた。
この場所は真に歴史上由緒ある地籍である。
尾野山史跡巡り協議会
平成二十七年三月」
平貞盛に味方し孫台の北に敷陣したのは、地元の土豪である他田真樹で、将門軍の矢に当たり戦死したといわれている。
この他田氏は信濃国造の子孫であるともいい、出典は失念したが他田氏は依田氏の祖ではとの考えもあるようだ。
また、合戦はここから神川方面にうつり、創建時の国分寺はこの戦いに巻き込まれて焼失したと伝えられている。
貞盛は従兵をほとんど失い、山中に逃げ込んでやっと命が助かり、将門は何度も残念がって首をかき、むなしく本拠に戻ったという。(「将門記」より)
古墳の北側、一番隅のにあるのが「長野県町村誌」にある五輪塔か。
「長野県町村誌」の石塁とは上の墓地のことか、中央の石積の段のことであろうか。
丸子方面を望む。丸子城や依田城の山頂が覗く。
真田方面。神川上流の砥石城が確認できる。天気がよければ真田本城も見えそうである。
孫台上から見た尾野山城。
2019、3月初訪
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