真田昌幸が伊勢山、若しくは真田本城等に在城していた頃、支配上の重点として金剛寺に城代を置いたであろうことは充分に考えられる。・・・・現在最も確定的に答えられる城代は最後の石井喜左衛門であろう。彼は昌幸の子信之と縁が近かったのでは、と考えられる程に真田家に重用されていて、真田昌幸・信之二代の家臣中、残されている文書で彼の名を付せられたものが最多であろう。しかし、彼の出自、生没年、その与えられた地位等は不詳が多く、ことに元和八年真田信之が上田から松代に移るに際してもこれに従っておらず、仙石氏が小諸から上田に移ってからは浪人のまま当金剛寺で死去したものであろうか。 彼は真田藩士として主家には大きな存在であり、この期の真田家関連文書にその名前が載らないものはないほど信任を得ていたらしいが、信之の松代移封後は金剛寺村に帰農しまもなく死去したらしい。 彼は当地小字城代屋敷(現公会堂より西約70 ~80 m)の所に葬られたことは確かであり、後年この墓が祟りをなすと信じられたことから、土地の所有者らがはかってこれを西山城の東麓に移したとされる。(『金剛寺区誌』)
明治41 年に米山城山頂に移された。(以上「神科を歩こう ―上田市神科地域文化財の現況―」より転載)
金剛寺集落入り口、広道の石碑群。
庚申塔(宝暦9年(1759)の銘)・二十三夜塔・道祖神などがあるという。
この北側辺りの畑から中世の五輪塔がでたといい、十基ほど西側の道の下に並んでいる。
義清水。
米山城の村上義清と関係すると伝わり義清水といわれているが、新しいものとの説もあるという。
すぐ斜め上には南の土塁跡がある。
ここの民家田中氏宅からは中世の内耳土器片・香炉片などとみられる土師質土器片が昭和52年に出土 しているという。
因みに道の反対側。
すぐ上の貯水池のところで大手の道から左へ西小路が分岐する。
拙い経験ながら、貯水池の位置は水堀跡であったりするがここはどうだろう。西の方を北から南に流れる水路がこの辺りで東に折れて、貯水池のところで再び南に折れるが、この場所は城代屋敷地籍よりかなり南であるので、寧ろ田中氏宅の土塁跡に関連する水利遺構ではと考えられないか。
柵木を建てる程度の規模の土塁跡のようだが、濠を伴ったものではなかったかと筆者は推測し、田中氏宅から中世の土器片などが出たのも木戸を想像させるものといえる。
大手の道。
西への道の分岐ところから城代屋敷、「信濃の山城と館」のいう推定地(1)の南端になる。
東の折れのところの西側の細小路の奥。
北の突き当たりは東の道につながるが一段高くなっているのが気になるところ。
東の道から見て細小路の北側が一段高いのがわかる。
「信濃の山城と館」にある(1)が城代屋敷である場合、二段になっていた可能性がありそうだ。
戻って金剛寺公会堂と北の折れ。
北側から見た金剛寺公会堂前の道の折れ。折れの役割はよく分からないが石碑の所が正門で公会堂一帯が馬場か堀などがあったものであろうか。筆者には知識が無い。
金剛寺公会堂横からは、矢出沢川へ下りていく砥石米山城への登山道がわかれている。
矢出沢川を渡る。
米山城の登山道口。
登山道口北側が「小屋の入」と思われる。
「小屋の入」地名と立地から村上時代、金剛寺が砥石城の城下町となってからの大手はここではないかとも思うが、調べてないし、実地調査もしていないのでわからない。
矢出沢川に添った東端の道は「信濃の山城と館」にある(1)と(2)の境の道のところで折れている。
この境の横道。
(1)の北端で(2)の南端となる境目で北側の(2)が一段高いようだ。
城代屋敷が(1)であるにしろ(2)であるにしろ、境のこの横道のところが堀など在ったと思うのだがよく分からない。この横道の西側も複雑だが東の道の折れもその名残か。
境の道から北一帯が「上手村」地籍で城代屋敷の推定地(2)。
(1)が住宅地であるのにくらべ畑地がほとんど。
西側から見た(1)と(2)の境の道。
石垣のところが、その(2)の西南隅になるようである。
北には天然土塁と言われる「薬師堂跡」に行き当たる。
この南側は低地で水路が通っている。水堀であったかもしれない。
(1)の西側の道を南に見たところ。
生垣の左が「城代屋敷」地籍で「石井喜左衛門の墓 」が最初に在った場所になる。墓は西山城の東麓に移され、現在は米山城にあるという。
石井喜左衛門の墓 が最初に在ったいう場所。
(1)の南西隅から見た西側の道。
水路が西限ということになるらしい。
水路はそのまま真っ直ぐに南にむかっていた。
ここの西側に「西山城砦群」。
また、「石井喜左衛門の墓 」が移された場所になる。
南側の道に突き当たる西小路。先の貯水池のところで大手に合流する。
ここまで「信濃の山城と館」にある「城代屋敷」推定地(1)をぐるりと周ってみた。
同書によると、(1)の北限までが「城代屋敷」地名で、(2)の部分は「上手村」で城代屋敷には含まれないとの地元の証言があるという。
また、西側の用水、西小路、砥石米山への道などの条件や、字城代屋敷には石井喜左衛門が住して墓もあったという伝承からも「城代屋敷」は(1)の可能性が高いか。
この石井喜左衛門のことは詳しく調べていないが、
真田昌幸が高野山に蟄居した翌年の慶長6年(1601)に、「一門の御位牌所であるので半壊した長谷寺の造営を頼む」という旨の書状を真田信之の重臣らに宛てているが、矢沢但馬殿・原半兵衛殿・石井喜左衛門尉殿・木村土佐守殿とある。
また、信濃史料に「元和四年九月一一日(1618) 真田信之、菅沼二郎右衛門を、石井喜左衛門代官所小県郡本原の大代官となし、また、小林九右衛門を、木村綱茂代官所同郡長窪の代官及び問屋となす、」(信濃史料 巻二十三)
これは、石井喜左衛門尉が本原から金剛寺一帯の代官であった可能性を示唆する。
「神科村郷土史」にある「里伝承ニ此人ハ村上義清ノ家臣ニシテ、…」は、真田幸綱(幸隆)による砥石城の陥落が天文20年(1551)5月。村上義清越後落ちが天文22年(1553)。真田信之が上田から松代転封が元和八年(1622)。と余程の長寿でないとあり得ないかと思うので、可能性としては喜左衛門尉を世襲した親子二代のこととなろうか。
また、西側の用水、西小路、砥石米山への道などの条件や、字城代屋敷には石井喜左衛門が住して墓もあったという伝承からも「城代屋敷」は(1)の可能性が高いか。
この石井喜左衛門のことは詳しく調べていないが、
真田昌幸が高野山に蟄居した翌年の慶長6年(1601)に、「一門の御位牌所であるので半壊した長谷寺の造営を頼む」という旨の書状を真田信之の重臣らに宛てているが、矢沢但馬殿・原半兵衛殿・石井喜左衛門尉殿・木村土佐守殿とある。
また、信濃史料に「元和四年九月一一日(1618) 真田信之、菅沼二郎右衛門を、石井喜左衛門代官所小県郡本原の大代官となし、また、小林九右衛門を、木村綱茂代官所同郡長窪の代官及び問屋となす、」(信濃史料 巻二十三)
これは、石井喜左衛門尉が本原から金剛寺一帯の代官であった可能性を示唆する。
「神科村郷土史」にある「里伝承ニ此人ハ村上義清ノ家臣ニシテ、…」は、真田幸綱(幸隆)による砥石城の陥落が天文20年(1551)5月。村上義清越後落ちが天文22年(1553)。真田信之が上田から松代転封が元和八年(1622)。と余程の長寿でないとあり得ないかと思うので、可能性としては喜左衛門尉を世襲した親子二代のこととなろうか。
さて、公会堂北の東の道の折れまで戻り、推定地(2)をめぐってみる。
北側の土塁跡や、北西の天然土塁と言われる薬師寺跡、まとまった地形であるなど、古い説ではこちら側を「城代屋敷」推定地としている。
北から見た(1)と(2)の境の道の折れ。
道標には「右松代道 左山道 若者中建」とあるらしい。
(2)の北端の道と道祖神と石仏。
(2)の北端の道。
左手一帯が「上手村」地籍で城代屋敷の推定地(2)の「玉蔵寺跡」になろう。奥の竹林のところが薬師堂跡の天然土塁付近、西端である。
この(2)の北端の道に土塁跡と説明板があり、それらしき盛土もあるが、どうも腑に落ちない。
それは、(2)の「上手村」地籍に盛られた土塁より北側宅地の方が高い地形であるということである。
現在の道路が、土塁を崩して埋めた堀跡と取れなくも無いが、それでも狭い道路なのでそう大規模なものではなかったと思われるし、塀を巡らしても北側から城代屋敷内は丸見えといえる。
ただ、南側の土塁跡も小規模なものであったし、推定地(2)が城代屋敷として、村上時代のものか真田時代のものかで役割は変わってくる。この程度でも事足りたということかもしれない。
東側から見た(2)の北端の道。
緩い斜面に土塁の盛土が通っていたのが想像できるが。
とこのように非常に眺めはよい。
天然土塁「薬師堂跡」。
薬師堂跡北側の墓地。「薬師堂跡」から見た砥石城と米山城、上手村地籍。
「薬師堂跡」南端。
南から見た「薬師堂跡」。
「薬師堂跡」の土塁状地形の南側はさらに一段高くなっていることがわかる。
西の道と奥の「薬師堂跡」。
南の先は先出の(1)と(2)の境の道のところになる。
「松代道」が分かれ金剛寺峠へ向かうところには見張りが在ったであろうし、南に土塁が在ったのであるから、北の土塁も在ってもいい。
「城代屋敷」でないにしろ、北の方の御堂地籍は玉蔵寺廃寺跡で武装修験集団が居たともいうし、海野氏ゆかりの洞源寺や白山城に関わる施設も考えられる。
金剛寺は歴史が古くロマンがある。
2019、2月初訪
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