東太郎山から南側尾根に柏山城があるが、その支尾根といったところの先端部で、金剛寺集落の真北になる。
「信濃の山城と館」に「金剛寺区誌」に遺構としてあるものとして「白山城」を載せ、また、地元の案内板等にもあるものだが、白山城としての遺構らしきものは全くないとされ、筆者自身も手掛かりはみつけられなかった。
「城」の定義は広いのだが、この「白山城」は「見張り番所」程度の役割ではなかったかと思われる。
海野氏ゆかりの洞源寺。 |
白山城も西山城砦群同様に海野氏支配時代に関わるものかもしれない。
金剛寺集落から見た西山城砦群 |
白山城から見た柏山城 |
小宮山城(米山城)と金剛寺集落 |
そういった意味で白山城は、大手は南側かもしれないが、北や東側の監視が目的であったとも推測できるかもしれない。
白山城北側面は急崖であり、目の前には結構な広さの平地が開けている。この方面に目を光らせなかったはずはないであろう。
残念ながら白山尾根の東側は「信濃の山城と館」にある「畑跡」となり、旧態が掴めないが深い作耕跡は元々の小屋跡を利用したもので、それは東側の墓地の所から続いていたと推測することも出来るが無論推論である。
北側面の急崖。
この前の畑の桝形の道の形状も気になるところ。
付近の小字御堂の畑地からは、青磁蓮弁文碗・漆塗りの木製碗・人骨、土師質小皿・宝医印塔相輪片・鉄製鎌などが出土しており、この地に中世の墓所があったと推定されているが、洞源寺境内の南北朝時代銘の宝医印塔の塔身が残存していることから、鎌倉時代後期から南北朝時代の14世紀代のものと推測されるという。
金剛寺パンフレットには付近に「玉蔵寺廃寺跡」とある。
南端の登城口。
定石通りここから登る。
墓地のある削平地と一段上の削平地、少し上にも狭い削平地があるが城の遺構かは不明。
もう少し上の石祠。
石祠上方の地形。
さらに先の白山社が建っていたと思われる辺り。
二ヶ所の盛り上がりがあったが、手前は後方と平なので鳥居でもあったものか。
奥の盛り上がりは独立しているが祠が建つ程度の盛り上がりで、石列らしきものは見られなかった。
どちらも不明瞭であるが、人工的に形成されたような気もしなくない。
この先は全くの自然の尾根が続くだけなので白山社跡とはここだと思う。
少し歩いたが、この先は自然の尾根が続くだけのようである。
ここに堀切の一本もあれば「白山城」と堂々と言えるのだが残念。
ここに堀切の一本もあれば「白山城」と堂々と言えるのだが残念。
白山社跡付近から見た西山城砦群と柏山城上の城。
ところで、白山社跡への途中東側斜面は大きくえぐれた窪地状になっている。
「信濃の山城と館」に「畑跡」とある一帯で、近年に重機が入ったのではと思うほどに広範囲が掘削されている。
北東側面。
大規模な掘削自体は近年のものとしても、この場所が白山の北東側に位置し、金剛寺峠、松代街道方面を向いていることに注目すると、或は白山城の主要部はこの位置にあったのではとも思えるという考えは前出である。
右下の竹林奥付近が福沢出丸の伝承地の所だと思うが、東西に相対しているのは面白い。
福沢出丸は松代街道に接しているが、矢出沢川の東岸であり、砥石城の裾にあって水の手としての機能が大きかったと思われるが、村上時代に白山城の役割も負うたものか。
白山城は洞源寺が南北朝期の海野氏にゆかりのあることから、海野氏支配時代に関わるものと考えられるが、村上氏時代に金剛寺が砥石城の城下町となってからも北側の見張り所、また柏山城の裏手への備えとしても一応機能していたと考えるのが自然のように思える。
そして、北側への不安の少なくなった真田氏時代にはおそらく利用されなくなったのではないか。
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