洞源寺山門 |
本尊は木造釈迦牟尼佛で脇侍は文殊・勢至菩薩。
境内に北朝貞治2年(1363)と永和5年(1379)銘の2基の宝篋印塔残欠がある。上田市内千曲川東北岸の中で、年号の分かる文化財で最も古いもの。
戦国時代村上義清の入部により破壊。
慶長5年(1600)金剛寺村田中氏(藤左衛門か)により小堂建立。後、伊勢山陽泰寺第5世白州梵徹和尚が招かれて晋山し曹洞宗祥雲山洞源寺発足。
昭和53年、金剛寺住民・檀家の喜捨により本堂・山門の全面改修。
平成4年、檀家の寄進により庫裡新築。
近年は無住がほとんど。
(「神科を歩こう ―上田市神科地域文化財の現況―」より)
洞源寺本堂 |
海野氏第22代海野兵庫頭幸則は元弘3年(1333)没という。
この兵庫頭幸則が海野氏第22代かはわからないが、海野幸継が出した海野六家の頃かと思われる。海野氏は支族を出して大いに繁栄したが、鎌倉幕府は怪しくなってきた時期になろうか。
開創当時は臨済宗の寺で山名は養命山といったらしいが寺名は不明という。
城館的な意味合いを持っていたと考えられているらしい。
これら「元弘2年(1332)海野氏開基」、「城館的な意味合いを持つ」、というのを信じるのであれば、海野氏が西に進出し小宮山氏が金剛寺に小宮山城(米山城)と居館(長島の堀ノ内)を築いたとされる応仁(1467~1468)以前から金剛寺は海野氏の影響下にあり、尚且つ一族もしくは一族に近い者が居住していた可能性があることを意味している。
鎌倉期から、おおよそ上田庄一帯は地頭太田氏の領する所とされるが、関連が気になるところである。
南北朝時代の銘の2基の宝篋印塔残欠は、北朝方の元号で「貞治2年(1363)2月15日」と「永和5年(1379)4月」という。
海野氏は一貫して南朝方であったと記憶するが、北朝優勢になってくると南朝方であっても北朝元号を使用した例はあるそうである。
もっとも、この2基の宝篋印塔が海野氏に関わるという確証は無いが。
慶長5年(1600)は関ケ原の合戦があった年であるが、真田氏領であるので許可をもらったものであろう。金剛寺村田中氏(藤左衛門か)は旧寺、或は海野氏に縁のある者であろうか。
白山城と洞源寺 |
城の遺構は全く無いが、白山社跡と思われる場所はある。旧寺との関連はありそうだが不明。
洞源寺方面から見た金剛寺集落と米山城 |
金剛寺とは洞源寺開創当時の寺名かとも思ったが、
改訂・玉蔵寺は「金剛寺パンフレット」に金剛寺峠入口付近の御堂地籍に「玉蔵寺廃寺跡」があり弘仁年中(810~824)の創立と伝えるが、青磁蓮弁文碗などの出土品や洞源寺の宝医印塔残欠から推測して、鎌倉時代後期から南北朝時代の14世紀代の墓地が在ったと推測されるという。天文年中兵火にかかり上手村の所に移ったらしい。
洞源寺より古い可能性があるが、真言宗新義派上田町海善寺末というので、やはり海野氏に関わるものか。
2019、3月2日改訂・玉蔵寺の行
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