2019年1月1日火曜日

大御堂跡@東御市和深井

「東深井区誌」に、字堂裏に「おおみどう」という字地があるが「大御堂」であり、近くの民家がその名で呼ばれるているが、その家の100m程の所に大御堂という立派なお寺があった事に由来するとある。
「小県郡史」には、大伴連忍勝(774死)が大平寺村に寺を建てたと記してあるが、「小県志略」(幕末、上田市原町の成沢寛経著)には、大伴連忍勝の寺は堂裏の大御堂であって、今その礎石が残っていると記しているが、現在はないという。
昭和27年に一志茂樹氏が視察し、大御堂の跡地を指摘したが忍勝の寺かどうかはわからないと言ったという。
同誌では、もし忍勝の寺とすると奈良朝のこととなるが、この跡地には室町時代と思われる五輪塔が無数にある事から、それ以前には大御堂が在ったのは確かであろうとしている。
さらに、「み堂」と尊称したうえに「大」の字を冠していることは一通りでなく、平安の昔、一世の権勢者御堂関白藤原道長のことなど思い合せて、尋常一片のものでないと思うとあるが、それは今なお謎のままである。

371番地から380番地に至る約2000坪(6600㎡)が境内で、371番地が寺の跡地とおもわれている。

北東隅の写真で、畑地が371番地の寺の跡地とされているところ。
道路の奥は西深井集落。右手は北で「権現堂」の字地だが、付近一帯は畑地である。

東側側面。

南東隅。

南側側面の道路。
この道路南側の地籍は大門というから、正面は南面であったかもしれない。ちょうど中央に小林家の墓地があるがそこか。

南西隅は北に直角に折れている。奥の家が「おおみどう」の名で呼ばれるている民家になろう。

境内跡、中央付近の墓地付近か、その北の石垣に見えるところが五輪塔群があったという場所だと思われるが、土地所有者さんに遭遇出来なかった為に外から撮影したが、中央の小屋の裏が塚のように見える。
近寄れる機会があったらまた更新したい。
五輪塔群は、かつて畑の畔畔に無数に積み重ねてあって、見学に訪れる人も多かったようである。しかし昭和大戦後には盗んで庭石などにする者などもいたらしく、大部その数が減ったという。



吉田堰に発する中堰は東深井集落を抜け、深井氏居館跡脇を通り大屋に下り落ちて千曲川に注いでいるが、大屋の旧道に架かる橋が御堂沢橋という。
中堰に違いないのだが、「さくえもん林」の上から笠石川と呼ばれているらしく、御堂沢橋には「笠石川」の名が記されているという。

 現在橋は改修され、「みどおさわはし」の名も「笠石川」の名も記すものは見当たらない。
  「東深井区誌」に、これらの地名や旧称の消滅や塗り変えを危惧する記事があったが、これでは町歩きをしても何川の何橋かも分からない。
 現状ではグーグルアースで旧橋の画像がみられるが、確かに「みどおさわはし」と「笠石川」と記されたプレートが確認できる。

この「みどおさわはし」の「みどお」が「御堂」であって、現在東深井を流れている川(中堰)は、かつては大御堂跡を流れていた故に伝わった名ではないか。といったことが同誌にある。
つまり東深井区と大御堂の間辺りを流れ、鷺坂を下り御堂沢橋に流れていたと想像されるのである。
みどおさわはし
大屋に一対の仁王像があるが、寛保の大洪水でその一つが押し流され御堂沢橋の下に沈んだといい、そこを今も仁王淵というという。
その時残った一つの仁王像は大屋の今の堀内理髪店の東隣に長く鎮座し、昭和三五年に街区整理でその跡地は柳澤時計店となり、仁王像は竹花医院の病室の東に移されたという。
これには田中の法善寺の仁王像の一基が流され大屋で拾われたとの説もある。
「東深井区誌」では、現存する仁王尊辺り一帯は塔の原という地名で、御堂沢橋があり、その上流と推測されるところに大門、大御堂、さらに北に権現堂があるなど、何か一連の関係がある様に思われるとある。


大御堂が大伴連忍勝の時代まで遡るかは分からないにしろ、この場所に古い寺院が在ったことは確かなようで、発掘などすれば埋もれたという礎石なども見つかるかもしれない。
この辺り、中世には海野氏の執事であった深井氏の所領する地であったが、深井氏には貞元(貞保)親王と深井某の娘に生まれたのが海野氏であるとの伝説が残るほどの古族である。
海野氏は大伴氏を祖とするという説とあわせて、そのあたりが落としどころかも知れない。

北東にある「琵琶塚」。
謂れは知らないし、琵琶石や琵琶塚自体がどれであるのかよく分からないが、中堰はかつてこの脇を流れていたという。

鷺坂には鷺石が在ったらしい。
付近は見張りを置くのに都合が良さそうな高台もある。




2018、12月初訪



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