荒堀公民館のある区画辺りが荒堀内記屋敷跡という。
荒堀氏のその後は不明で、現在同地に荒堀氏はいないという。(「信濃の山城と館」)
杵渕氏は「源平盛衰記」養和元年(1181)6月横田河原の合戦で、木曽義仲方の西広助に討たれた平氏城資長方の富部三郎家俊の郎党である杵渕小源太重光が主君の仇を討ったのち敵に囲まれて自害したという逸話が有名だが、杵渕氏は戦国時代まで杵渕殿屋敷に住居したと伝承し、戦国時代には村上氏家臣であったようである。
荒堀内記は本村杵渕氏の家臣なりと云うのが何時の時代の事かわからないが、「長野県町村誌」の文脈からは戦国期に荒堀内記が在ったというようにとれる。
しかし現在荒堀氏が近隣に見られず関西方面に多い事は、或は平安末期から荒堀氏は在ったのかもしれない。
「信濃の山城と館」にも「荒堀氏も平家に属していて、その後どうなったのかについては、史料がなくはっきりしない。いつの時代かに村から消え、その後に新しい人々が入ったものと思われる。」としている。
荒堀氏に関しては上記出典等折を見て調査したい。
荒堀公民館敷地の祠。
また入口脇に猿田彦大神。公民館の中には江戸時代に千曲川の増水によって流れ着いたと伝わる「荒堀の雨降り地蔵」が安置されているという。
この奥に堀跡が在ったと伝えるので、この道も堀であったかもしれない。
堀跡が在ったと伝える所。
北から見た西側の道。
南から見た西側の道。
せんげが通っているようなので西側堀跡であったかもしれない。
南側の道。
これも南側の堀跡と推定してよいだろうか。
この道は古い街道とおもわれるが、水沢氏屋敷から荒堀内記屋敷を通り、杵渕館まで続いている。杵淵の各集落の中心的な館が一本の道でしっかり繋がっているのは面白い。
荒堀公民館と入口脇の石碑は猿田彦大神。
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