2018年11月16日金曜日

杵渕館@長野市篠ノ井杵淵

館跡は地元では殿屋敷と呼ばれ、土塁の一部が残っている。

「長野県町村誌」に、杵渕氏が代々居住し杵渕村を領したと伝承し、後に中沢氏に改姓、子孫は現在東京にあるという。また杵渕山中澤寺(廃寺)は中沢氏の開基という。
では戦国時代まで杵渕氏が住居したという。

杵渕氏は「源平盛衰記」養和元年(1181)6月、横田河原の合戦で、木曽義仲方の西広助に討たれた平氏城資長方の富部三郎家俊の郎党で勘当中であった杵渕小源太重光が主君の仇を討ったのち敵に囲まれて自害し果てたという逸話が有名であるが、平安末期まで遡れる氏族である。

富部氏は布施氏の一族で富部郷を治めていたとされるが、その後の動静はよくわからない。しかし杵渕氏は戦国時代まで杵渕の殿屋敷に住居したと伝承し、村上義清の家臣に杵渕国季・木根渕土佐守があるようなので、戦国時代には布施氏らと共に村上氏方にあった一族が在ったと思われる。

また近くには、杵渕氏の従者であったという荒堀内記の屋敷水沢氏の屋敷が千曲川沿いにあり、僅かに形跡が残る。


敷地跡と推定される東面。
塀に沿って堀が在ったと思われる。

北東の隅。
高低のある地形は塀の痕跡だろうか。

南東隅。

南面の道。
これらは堀跡と見たい。

西側から見た土塁跡周辺。周辺は整地され小島の様である。
北西隅にあたる土塁跡で、堀の角ともいえる。よく残っていてくれた。

土塁跡と土塁上の稲荷社。

土塁跡は予想よりも大きく、杵渕氏の支配力を感じた。


西側に堀があり昭和初期までは水泳ができたという。

西側の堀の痕跡。

さらに北に回り込む。
北の堀跡。
堀跡から見た土塁。






2018、11月初訪




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