市の町砦跡から見た陣場山(お伊勢山)。
天正十三年(1585)丸子城を攻めた徳川軍が真田方に対し陣を占めた所で地元民は「カナツボの城」と伝え、麓に「御馬屋畑」と云う地名があるという。(「長野県町村誌」)
「陣場山」は、そこから付いた地名だと考えられるが、周辺には「天下山」や「勝負沢」、「殿平」、「白塚(城塚?)」という関連しそうな地名もあるという。(週刊上田)
陣場山からは、上田方面を奥まで見渡すことができる場所であるが、本陣が在ったと思われる稲荷社周辺からでは丸子城方面の見通しは良くないように感じた。
丸子城方面を望むにはもっと南の天下山マレットゴルフ場のあるほうまで行かなければならず、或はそこら一帯まで含めて陣場であったとしても遺構が在るとも聞かないことから、やはり稲荷社周辺を本陣として上田方面や依田川を挟んだ尾野山城に対してのものと思える。
そうしておいて徳川軍は丸子城を攻めるのだが、丸子城本居館のある東内方面から攻めかかったとされている事からも上田方面からの真田軍を警戒した陣取りと思われるのである。
一方の真田昌幸は市の町砦に対陣し、尾野山城に兵を増強して徳川の攻撃に備えたという。
丸子城攻撃戦は徳川軍の優位に進み。真田軍は丸子三左衛門(三右衛門)の守る丸子城に退却。このとき昌幸は秀吉に援軍を要請し秀吉は援軍を出すことを承知したという。
徳川も井伊直政らの援軍を派遣するが三ヵ月ほど両軍のにらみ合いは続き、やがて家康の重臣石川数正が秀吉へ出奔する事件が起り、徳川軍は全軍撤退し第一次上田合戦は幕を下ろした。
緩やかな傾斜で東側下方は細長い削平地となっているが畑地跡か。
細長い削平地。
削平地から斜面上を見上げる。
明神宮鳥居。
明神宮拝殿か。
明神宮。
稲荷社。
祠と稲荷社。稲荷社前の祠と石塔。
陣場砦東側にある案内板。
天下山マレットゴルフ場近くの陣場山パラグライダー場。
ここからの眺めがいい。
左手手前の尾野山城から小牧城。奥の上田平と遠くの山波は虚空蔵山と太郎山山系。
2018、9月初訪
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