中世の市跡が小字町屋の四辻にあったという。
現在は高速道の下になってしまったが、かつては雑木に交じって目通り60㎝ほどの榎の木の大樹があり「市神の森」と呼ばれていたという。
周囲は畑地で、四辻の道路脇には、筆塚や西町の某氏が建立した明和八年(1771)の年号入りの観音像などがあったというが、現在の案内板周辺の石碑らがそれであろうか。
案内板。
高速道路を潜るトンネル南側。
トンネル前の現在の四辻が古いものか分からないが、そうだとしたらトンネル口の左側周辺の土手が「市神の森」があった辺りと思われる。
ここからトンネルを抜け、道路に沿って東北へ向かうと祢津西町に、南西に下ると井高を経て海善寺方面へ。
東西の道は、東は祢津氏初期の居館跡とされる古見立南端を通り出場・新張へ、西は釜村田へ抜ける道路で、古くから祢津下道(推定)として利用されていた交通の要所であったという。(「上田小県誌」)
「市神の森」付近から北西方面の風景。
右奥の山は海野氏の居城ともいわれる矢立城。
北側には祢津下の城が真近にあるが、高速道でここからは見えない。
「市神の森」付近の風景。海善寺方面。
現在の市神は西町公民館脇に移されている。
祠そのものは時代的には新しいももらしい。
繊細な彫刻を施された石祠。
西町公民館脇の案内板。
市神は、むかし「市神の森」にあったが、いつの時代にか横町消防庫前に移されたが、道路拡張のため、西町公民館に再度移動したという。
「上田小県誌」では、祢津氏の居館が古見立から宮ノ入へ移ったが、東町の長命寺はもとは奈良原にあったし、大日堂は「市神の森」近くの古大日から移され、日吉神社は古見立にあったものを現在地に移したもので、これはある時代に意図的に移動配置されたことを物語っており、それにつれて市場も移動したものであろうとしている。
大日堂跡。
とりあえず「上田小県誌」から転載失礼。
「北御牧村誌」からも借用失礼します。
近くでは海野の市があるが、中世土豪の所領との関わりが伺われる。
とくに千曲川対岸の島川原の市は祢津・海野・望月各氏の中心地付近に当たり、付近を包括する市が立ったものと推察されている。
2018、7月再訪
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