2018年6月30日土曜日

小田中の善福寺跡@東御市加沢

東御市加沢の西南、所沢川の西岸一帯が、かつて善福寺といわれる中世寺院が存在したと伝承される場所である。

「東部町誌」では、善福寺に関する史料を二点あげている。
一つは、青木村村松の宝篋印塔の銘に「善福寺に寄進し奉る田畠の事、右寄進の田地は、浦野荘内村松藤次郎入道在家三分(の)二、田三畝、寄進すること如件、貞治四年(1365)十二月二十日、沙弥朝阿」と記され、浦野荘内に住む法名朝阿という人が田などを善福寺に寄進したことを書いてある。本来紙に書く寄進状を宝篋印塔の基檀に陰刻したのは、多分この塔が沙弥朝阿の供養塔であって、生前の善福寺に対する信仰の深さと業績を記したものであろうという。
善福寺は祢津氏所領の祢津小田中にあったこの善福寺とおもわれ、これは浦野荘の代官が祢津氏一族の浦野氏であることなどから、その中にある村松郷が祢津氏所領に関わる可能性を示唆している。

二つ目は、群馬県の「下屋文書」(永享九年(1437)丁巳十一月八日)に、二所へ(普通箱根権現と伊豆権現をさすという)参詣する人たちを引率してお参りをし、宿の世話をする先達職の権利争いが、祢津善福寺の大覚坊と下屋淡路の間でおこり、下屋淡路と同族の下屋伊勢が得分をあずかったとあるという。
以上から善福寺は南北朝期から室町中期までは存在し、坊も二、三付属していたこととみられ、宗派は不明だが時宗の寺ではなかったかと想定もできそうだとある。

小笠原政康が小県に侵入し芝生田別府の両城を落したのは永享八年(1436)。
村上氏滋野氏が地域支配をめぐって抗争した海野大乱が応仁二年(1468)。
村上氏が佐久郡の大井政則を下したのが文明一六年(1484)。
武田信虎が、村上、諏訪らと連合し滋野三家を攻めた海野平合戦が天文十年(1541)。
武田信玄と村上義清が戦った上田原合戦が天文十七年(1548)。

どうやら村上氏が小県や佐久に侵入した時期以降に戦火にかかった可能性がありそうである。

長久寺
東御市常田の「長久寺」の縁起や口伝に、長久寺の前身である善福寺の創建は長久二年(1040)と言われ常田氏の祈願所であったという。 戦国時代に武田、村上の合戦のとき兵火を受け焼失したと言われる。その後、常田氏は羽黒に堂を再建し、善福寺創建の年号長久をとって長久寺と改めたという。
これに照らすと、武田信玄が信虎を追放した混乱時を攻めた小笠原と諏訪ら信濃勢が撃退され、信玄の信濃侵攻が始まった以降の廃寺ということになる。
また、長久二年(1040)に常田氏が祈願所として善福寺を創建したようにとれるが、後で述べるように大門は東側の小田中の方をむいており常田のある北を向いてはいない。常田氏は海野一族から分かれた支族だが、小田中氏と常田氏は関係の深い氏族ということなのかもしれない。
このあたり筆者の認識あまいので調べて改稿したい。

小田中の西に善福寺という地字が三筆あり相当に大きな寺であったことが伺える。
大門崎が大門先だとすると善福寺の大門は東側の小田中の方をむいていたことになるという。
未見だが、石垣に囲まれた屋敷跡、小田中氏の住居跡らしきところもあるという。

小田中善福寺跡
現在の小字小田中周辺には社宮前・若宮・前田・樋の口・大長田・善福寺・大門崎など、寺社や水田を示す地字がつながっており、祢津氏の代官支配地、小田中祢津はここという。
小田中氏の名は「大塔物語」(1400)に根津越後守遠光を大将とする軍の中に、桜井・別府・実田・横尾・曲尾氏らとともに小田中が見える。
小田中祢津の地名があらわれるのは「御符札之古書」享徳元年(1452)の「大(小)田中祢津、代官金屋」が初出で、金屋氏は一度頭役を勤めただけで、そのあと30年近く不明。文明年代以後、代官出沢(浦か)修理亮直宗や岡村氏が現れるという。
金屋氏が信濃の中世資料にあらわれるのは、このときだけで、信濃国内に金屋氏の出自を求めるのは難しいという(「東部町誌」)。

善福寺地籍が複数あるのは、近世の旧田中村と旧加沢村の境界による為で、(5)(6)(3)合わせた一帯が寺領であったのだろう。
東側を流れる所沢川を東の境界としているようだが、その方向に大門崎があり、所沢川を挟んですぐ目の前に地字小田中があるのは


新張・奈良原から流れる所沢川。
所沢川の下流西岸一帯(写真左方向)に善福寺が在ったと推測される場所である。

(3)、(4)、(6)の境目付近。
写真左手は線路を挟んで千曲川に達するまで畑地であり、石積遺構や五輪塔が見つかっているという。

(4)の大門崎。五輪塔が見つかっている付近。
関係ないが奥の山は外山城。


寛保2年(1742)8月戌の満水で流されたものを集めたものともいう。
そうであるならば、(3)の段丘上から流されたものか。(3)の善福寺からは、たくさんの五輪塔が発掘されており、その一部が所沢川などの氾濫によって下流に流されたものと考えられる。
付近で他にも五輪塔が見つかった場所があるかも知れないが、下調べ不足で不明。
石積遺構も素人には近世のものとの判別が不能であり次回に譲ろうとおもう。

(4)の大門崎から小田中方面を見る。
地字善福寺の東側に大門崎(先)があることから、小田中方面を向いていることになり、その方向の権力者との関連が推察される。小田中氏の可能性が高い。


信濃鉄道の線路の南側も、寺に関わるとされる地字、善福寺や京ヶ崎がある。
今回は線路の南側は歩いていない。


(4)の大門崎からみた(3)の善福寺は段丘上となる。

(3)の善福寺。
たくさんの五輪塔が綺麗に並べてあり、発掘されたものという。
ちなみに、南側は竹村家の一族墓地で家紋は抱き梶の葉。

(3)の善福寺。

史料に照らしてはいないが、おそらく「東部町誌」でいう(5)の善福寺が田中善福寺遺跡とされる所で、(3)の善福寺は加沢善福寺遺跡とされる所とおもう。
写真は(5)の善福寺北方の一段高い段丘上で、(3)との境目にも近い所になる。
周囲より盛り上がった畑地が、遠目でも異質な印象をうけ、かつて(5)の北方に存在したという古墳とはここではないかと思われる。

(3)の善福寺と所沢川。


善福寺付近の風景。


2018、6月初訪

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