天正18年(1590)昌幸家臣となった小山田茂誠は小県郡村松郷(青木村)を与えられ、村松殿はここに住んだためそう呼ばれたという。
小山田茂誠・村松殿は折を見て別項で。
道路の両脇にまたがっていたようで、写真右手には沢が流れている。
沢の方(北東)を見る。
南西方向を見る。
館跡と直接関係はないが、すぐ横には村松の宝篋印塔がある。
東塔の銘に「善福寺に寄進し奉る田畠の事、右寄進の田地は、浦野荘内村松藤次郎入道在家三分(の)二、田三畝、寄進すること如件、貞治四年(1365)十二月二十日、沙弥朝阿」と記され、浦野荘内に住む法名朝阿という人が田などを善福寺に寄進したことを書いてあるという。
本来紙に書く寄進状を宝篋印塔の基檀に陰刻したのは、多分この塔が沙弥朝阿の供養塔であって、生前の善福寺に対する信仰の深さと業績を記したものであろうという。
西塔も同時代のもので一対のものともいう。
この銘にある善福寺は祢津氏所領の祢津小田中にあった善福寺とおもわれ、浦野荘の代官が祢津氏一族の浦野氏であることなどから、その中にある村松郷も祢津氏所領に関わる可能性を示唆している。
天文十年(1541)に村上・諏訪・武田の連合軍が海野氏を攻めるまでは、塩原・田沢・奈良本は祢津氏の関係所領であったが、以後は村上氏の所領となり塩田にいた村上氏代官の福沢氏の支配となったとされている。
やがて武田氏の支配となるが、武田氏滅亡後は真田氏の所領となり一門の小山田茂誠に与えられたものである。
松村の林檎畑と夫神岳。
2017・秋
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