「更級埴科地方誌」にある「有旅城」のことかとも思ったが、有旅城はどうやら茶臼山陣場とされる辺り、地すべりで消えた茶臼山南峰にあった城のようである。
有旅城は大塔物語に見える布施城にも充てられ、平林正直の築くところともいい、築城の年次は明応ころ(1492~1501)かという(更級埴科地方誌)。
ただし、大塔合戦は室町時代中期の応永7年(1400)であり、有旅城は大塔物語に見える布施城ではないということになるか、築城が明応以前ということになる。
これが有旅城であれば、「長野縣町村誌」有旅村の「古城址」に当たり。同村の「城山」石川某居城と云う。のも近くににあるということになる。
追記・後「信濃古武士」という書を閲覧した。同書で著者の丸山氏は詳細な調査から「有旅城」を有旅集落に当てておられる。
説得力のあるところもあり、近日中に足を運んでみたいと思っている。
有旅城参照。
さて、「長野縣町村誌」岡田村に「篠の城」としての項目はない。出版された1936時点で認知されていなかったということだろうか。また、1967出版の「更級埴科地方誌」にも「篠の城」の記述はない。
但し、「長野縣町村誌」岡田村の管轄沿革には「古時不詳。布施氏の領地たり。同氏は鳥羽院の北面下総左衛門大夫正弘の男布施三郎を祖とす。布施某なるか布施郷に居住し本村を領す。(布施氏系図に、望月三郎重俊二男冠者重則、布施郷に来り氏を布施と講す。一本、布施氏系図に、望月重俊七代の孫、望月盛重の二男、二郎助重、布施郷に移り氏を布施と講すとあり)諸説何れか是なるや詳ならず。布施冠者頼直、本村に篠の城を築き移り
(里俗伝に十六課ヶ村を領すと云ふ不詳)字中曽根に家臣の邸跡あり。後山布施村に須立城を築き居住す。左衛門尉正直に至り、又布施郷に城きて移る。後山平林村の上尾組に築城し、之れに移り氏を平林と講す。年月不詳、村上氏の幕下に…(以下略)」とある。
布施冠者頼直は玄峰院寺伝「正安年間(1299~1302)に創建」、「更級郡・埴科郡人名辞書」では吉野朝時代(南北朝時代・1336~1392)の武人」とするが、玄峰院の供養碑には「正安二(1300)庚子九月九日卒」とあり、弘安(1278~1287)・正応(1288~1292)・永仁(1293~1298)を生きた人物ではないだろうか。
「城の沢に下る尾根筋には小道もあり、中ほどに平らに造られた箇所がある。麓には平地があり、石臼破片等の出土があり、人の住んだ跡と考えられる。また、山麓の大半は馬場ともいわれており、字中曽根には家臣の住居があったとも伝えられている。
布施・平林氏の家系によると、「鳥羽院北面下総左衛門大夫正弘、有旅に居住し、岡田茶臼山に城を築き、その子左衛門大夫家弘、布施三郎惟俊共に居住する」とあるが定かではない。また「佐久郡望月郷の望月三郎重俊の七代の孫の左衛門尉重盛の二男次郎助重布施郷に居住し、布施をもって氏とし、その孫布施八郎頼重岡田に城を築く」とあり、篠ノ城の初代城主となる。城跡並びに付近の地形からして多人数が住んだものとは思われない。後に布施冠者八郎頼直が山布施に須立城を築き、篠ノ城は出丸となる。宴の城宴の城についての文献は皆無の状態で定かではないが、新田旧三軒屋東側に小高い丘があり、宴の城跡といわれている。大塔合戦の折、兵士の休息場所であったとの説もある。」(共和村の歴史と伝承)という。
この「共和村の歴史と伝承」には気になる記述がいくつかある。
一番下の方に自作絵図があるので参考にしてもらいたいのだが、「中ほどに平らに造られた箇所」とはそれなりに大きな郭があることを言っているように思われるが、「信濃の山城と館」にそれらしき書き込みはない。また筆者も絵図以上の探索は行っておらずどの辺りにそれが当たるのか分からない。沢は北と南にあり、地図の余白から思うに、本郭から三の郭の南斜面に存在するのかもしれない。竹藪の密集した急斜面である。いつか検証したい。
「麓の平地」とは「山麓の大半は馬場」と同意義と思われるが、家臣の住居があったという字中曽根は調べていないので特定できていない。
「共和村の歴史と伝承」の出典系譜が定かではなく、筆者の勉強不足の知識では指摘も出来ないのだが、京住みであったろう平正弘・家弘が直接「岡田茶臼山に城(有旅城か)を築き」ということは考えにくく、庶流或は近い一族が信濃の所領に居し経営に当たったと考えるのが自然か。
「源平盛衰記」に「正弘が子に布施三郎惟俊、其子ニ富部三郎家俊也」とあり、布施御厨や富部御厨にも麻績御厨の給主職の平正弘の子孫が在地武士として勢力を浸透させていたらしい。
「共和村の歴史と伝承」では、「布施氏の発祥は布施・平林氏の系図によると『平家物語』に出てくる富部三郎の3代前の布施七郎で既に有旅岡田茶臼山城居住とあり、「横田ヶ原の戦い」が養和元年(1181)であるので、それより100年以前に、布施一族は有旅・岡田・篠ノ井をはじめ川中島周辺に勢力を持っていたと思われる」とある。
これらの信憑性はともかく、平正弘・家弘は保元の乱(1156)で崇徳上皇方に参加し、子弟とともに斬首され(正弘は陸奥国配流であったらしい)、信濃の所領も没官領となってしまったが、一族の中には命脈を保った者もいたものかもしれない。
それとは別に、小笠原長清が文治年間(1185~90)に信濃国伴野庄の地頭職となったころ、義仲に味方した春日氏(望月町春日)・香坂氏(佐久市香坂)・小田切氏(臼田町小田切)・落合氏(佐久市落合)・布施氏(望月町布施)など東信の旧族佐久に拠点を置いていた武士の一部が所領を失い、平家没官領となっていた北信地域の犀川流域を替地に与えられたらしい。
その望月町布施発祥の望月姓布施氏がこの地に入っており、同誌の「佐久郡望月郷の望月三郎重俊の七代の孫の左衛門尉重盛の二男次郎助重布施郷に居住し、布施をもって氏とし、…」とは望月町布施郷の事だとの説もある。
このあたり、非常に複雑なので後に望月、布施、富部、平林ら関連氏族の項などで考察したい。
「多人数が住んだものとは思われない」に関しては地方土豪の城としては十分なもので、後に布施冠者八郎頼直(布施忠頼、また直頼とも)が山布施に築いたという須立城(1400年代中頃の文明年間)に比べたら寧ろ立派な要害という印象を受ける。
但し現役の縄張りは、甲越の争いの折に大きく改修が行われたであろうことは立地的に容易に想像出来る。
この「共和村の歴史と伝承」には気になる記述がいくつかある。
一番下の方に自作絵図があるので参考にしてもらいたいのだが、「中ほどに平らに造られた箇所」とはそれなりに大きな郭があることを言っているように思われるが、「信濃の山城と館」にそれらしき書き込みはない。また筆者も絵図以上の探索は行っておらずどの辺りにそれが当たるのか分からない。沢は北と南にあり、地図の余白から思うに、本郭から三の郭の南斜面に存在するのかもしれない。竹藪の密集した急斜面である。いつか検証したい。
「麓の平地」とは「山麓の大半は馬場」と同意義と思われるが、家臣の住居があったという字中曽根は調べていないので特定できていない。
「共和村の歴史と伝承」の出典系譜が定かではなく、筆者の勉強不足の知識では指摘も出来ないのだが、京住みであったろう平正弘・家弘が直接「岡田茶臼山に城(有旅城か)を築き」ということは考えにくく、庶流或は近い一族が信濃の所領に居し経営に当たったと考えるのが自然か。
「源平盛衰記」に「正弘が子に布施三郎惟俊、其子ニ富部三郎家俊也」とあり、布施御厨や富部御厨にも麻績御厨の給主職の平正弘の子孫が在地武士として勢力を浸透させていたらしい。
「共和村の歴史と伝承」では、「布施氏の発祥は布施・平林氏の系図によると『平家物語』に出てくる富部三郎の3代前の布施七郎で既に有旅岡田茶臼山城居住とあり、「横田ヶ原の戦い」が養和元年(1181)であるので、それより100年以前に、布施一族は有旅・岡田・篠ノ井をはじめ川中島周辺に勢力を持っていたと思われる」とある。
これらの信憑性はともかく、平正弘・家弘は保元の乱(1156)で崇徳上皇方に参加し、子弟とともに斬首され(正弘は陸奥国配流であったらしい)、信濃の所領も没官領となってしまったが、一族の中には命脈を保った者もいたものかもしれない。
それとは別に、小笠原長清が文治年間(1185~90)に信濃国伴野庄の地頭職となったころ、義仲に味方した春日氏(望月町春日)・香坂氏(佐久市香坂)・小田切氏(臼田町小田切)・落合氏(佐久市落合)・布施氏(望月町布施)など東信の旧族佐久に拠点を置いていた武士の一部が所領を失い、平家没官領となっていた北信地域の犀川流域を替地に与えられたらしい。
その望月町布施発祥の望月姓布施氏がこの地に入っており、同誌の「佐久郡望月郷の望月三郎重俊の七代の孫の左衛門尉重盛の二男次郎助重布施郷に居住し、布施をもって氏とし、…」とは望月町布施郷の事だとの説もある。
このあたり、非常に複雑なので後に望月、布施、富部、平林ら関連氏族の項などで考察したい。
「多人数が住んだものとは思われない」に関しては地方土豪の城としては十分なもので、後に布施冠者八郎頼直(布施忠頼、また直頼とも)が山布施に築いたという須立城(1400年代中頃の文明年間)に比べたら寧ろ立派な要害という印象を受ける。
但し現役の縄張りは、甲越の争いの折に大きく改修が行われたであろうことは立地的に容易に想像出来る。
「新田旧三軒屋東側の小高い丘」の「宴の城跡」は調べていないので筆者には特定できていない。
布施氏布施高田館(布施城)参照。
戸部城参照。
玄峯院の裏山が篠の城。
雪厳山玄峰院は寺伝によると、「正安年間(1299~1302)に、布施冠者頼直によって創建され、大興山長禅寺と称し、布施氏代々の菩薩所となっていた。長禅寺がどこにあったかは定かではないが、現在地境内に頼直の墳墓があることから、この近くにあったものと思われる。
長禅寺は、数年廃寺になっていたが、天正3年(1575)布施氏の子孫で平林氏の蔵人佐正恒は、先祖代々の菩薩所であることから、これを岡田の現在地に再興し、上州碓氷郡秋間村の桂昌寺五世玄廓和尚(正家の弟)を請じて中興開山とし、雪厳山玄峰院と号した。正家の墓碑は現在も同寺境内に存置されている。」(共和村の歴史と伝承)という。
玄峰院参照。
玄峯院の裏手の果樹園から見たところ。「信濃の山城と館」による3の郭から東側に当たると思う。この辺り一帯が馬場なのかもしれない。
大手はこの辺りかと目星をつけてもう少し近づいてみたが、付け入る隙がない。実際には東の尾根がもう少し北側にあるので、大手もそちらかも知れないが、この場所が未調査では何とも言えない。
南側の要所となる宇土沢。
「信濃の山城と館」による3の郭の南下と思われる。道路から見ただけだが、3の郭の竪堀はこの辺りまで達しているのではと思わせる地形。
この辺りが宴ノ城の跡なのかも。
新田集落の路地的な道。この先に墓地がありそこから右の方…と地元の方に教えてもらう。
墓地の右手の崖の下を覗くと、早くも曲輪らしきものが目に付く。
しかも、かなりしっかりしたものが数段あるようだ。
お約束の二重の大堀切。
中のこぶは近世に破壊されたものか、切通状に通路になっている。
堀切は両側とも竪堀状に落ちていく。
東側の竪堀は途中平場を形成し、墓地下に見えた郭群と連携しているようにも思えるのだが、その場合、二重の大堀切の効果が疑問視されるので近世の植樹によるものか。
しかし実際、主郭・2の郭の南側斜面には、竹に覆われて確認出来ないながらも何段もの郭状の削平地が見られた。
二重の大堀切の主郭側はちょっとした平場になっていて面白い。道は主郭を左廻りに「信濃の山城と館」による5の郭へ回り込むのだが、右手へ進めば先程書いたように南側曲輪群に通じ、虎口とも思われる地形に通じそうなのである。
主郭を回り込む道の足下に郭が見える。
やがて5の郭にたどり着く。主郭側半分程は緩い斜面だがそれなりの広さがある。
郭北側は竹藪に覆われ進入が困難でもあり、今回は北側の郭郡は確認しなかった。
この上が主郭。
5の郭との高低差はさほど無い。
主郭の南側を見る。
南西隅辺り。二重の大堀切の真上に位置する。土塁があったとされ、少し高くなっている。その上幅は広いところで5mほどありそう。
主郭の南は急斜面だが、数段の郭が確認できる。
上からでも数段は確認できた。
南東隅の崩れた祠。
この向こう側、北東部は進入できそうもない竹藪密集地である。
南斜面の郭に降りてみる。
石積も見られた。
竹藪密集地を抜け出しホッとする。
この辺りは重要な何か(恐らく虎口)があったのか、石積が崩れたと思われる痕跡がある。
また石積。
意外と広い。
こぶのような土塁状の土居に石積。形状といい興味深い。
3の郭。
3の郭の北側斜面の曲輪群。4段確認できたがまだ下までありそうだ。
3の郭東側斜面の曲輪群からの景観。
ここまでこんな感じ。
最後は一際大きな切崖になっていた。
北方をみる。
振り返る。
この辺りの北側には沢が深い谷を形成していたが、未確認ながら「信濃の山城と館」にある主郭北側の段郭郡や、3郭北斜面の段郭をみるに、北方面の防備を意識しているようにも思えた。
絵図を描いてみた。
無論実測無しで適当に地形図に落とし込んでみたものだが、明らかな尾根とのずれはミスである。
「信濃の山城と館」でみるところの主郭の北側、5の郭以北は未調査。宮坂氏の縄張り図をそのまま充てている。2と3の郭の南側は竹藪密集地で未調査。3の郭の東側尾根には宮坂氏の縄張り図に描かれていない曲輪群が麓まで続いていた。これだけの山城であるので、二重堀以南の墓地のある台地周辺にも防御面でにもう少し遺構がありそうである。
2017秋
2018、12月有旅城の件に追記。
布施氏布施高田館(布施城)参照。
戸部城参照。
玄峯院と篠の城 |
雪厳山玄峰院は寺伝によると、「正安年間(1299~1302)に、布施冠者頼直によって創建され、大興山長禅寺と称し、布施氏代々の菩薩所となっていた。長禅寺がどこにあったかは定かではないが、現在地境内に頼直の墳墓があることから、この近くにあったものと思われる。
長禅寺は、数年廃寺になっていたが、天正3年(1575)布施氏の子孫で平林氏の蔵人佐正恒は、先祖代々の菩薩所であることから、これを岡田の現在地に再興し、上州碓氷郡秋間村の桂昌寺五世玄廓和尚(正家の弟)を請じて中興開山とし、雪厳山玄峰院と号した。正家の墓碑は現在も同寺境内に存置されている。」(共和村の歴史と伝承)という。
玄峰院参照。
玄峯院の裏手の果樹園から見たところ。「信濃の山城と館」による3の郭から東側に当たると思う。この辺り一帯が馬場なのかもしれない。
大手はこの辺りかと目星をつけてもう少し近づいてみたが、付け入る隙がない。実際には東の尾根がもう少し北側にあるので、大手もそちらかも知れないが、この場所が未調査では何とも言えない。
南側の要所となる宇土沢。
「信濃の山城と館」による3の郭の南下と思われる。道路から見ただけだが、3の郭の竪堀はこの辺りまで達しているのではと思わせる地形。
あるいは竪堀はこの辺りに落ちているか。
3の郭辺りと推定 |
三叉路の道祖神 |
南側からの全景 |
同所から見る善光寺平 |
新田集落の路地的な道。この先に墓地がありそこから右の方…と地元の方に教えてもらう。
公園と石塔 |
墓地を過ぎて振り返ったところ。
二重の大堀切 |
二重の大堀切 |
堀切は両側とも竪堀状に落ちていく。
東側の竪堀は途中平場を形成し、墓地下に見えた郭群と連携しているようにも思えるのだが、その場合、二重の大堀切の効果が疑問視されるので近世の植樹によるものか。
しかし実際、主郭・2の郭の南側斜面には、竹に覆われて確認出来ないながらも何段もの郭状の削平地が見られた。
二重の大堀切の主郭側はちょっとした平場になっていて面白い。道は主郭を左廻りに「信濃の山城と館」による5の郭へ回り込むのだが、右手へ進めば先程書いたように南側曲輪群に通じ、虎口とも思われる地形に通じそうなのである。
目の前の斜面上はすでに主郭である。
大堀切越しに南側を振り返る。
やがて5の郭にたどり着く。主郭側半分程は緩い斜面だがそれなりの広さがある。
郭北側は竹藪に覆われ進入が困難でもあり、今回は北側の郭郡は確認しなかった。
この上が主郭。
見事な竹藪
主郭の南側を見る。
南西隅辺り。二重の大堀切の真上に位置する。土塁があったとされ、少し高くなっている。その上幅は広いところで5mほどありそう。
土塁上から二重の大堀切を見る。
上からでも数段は確認できた。
南東隅の崩れた祠。
この向こう側、北東部は進入できそうもない竹藪密集地である。
南斜面の郭に降りてみる。
石積も見られた。
竹藪密集地を抜け出しホッとする。
この辺りは重要な何か(恐らく虎口)があったのか、石積が崩れたと思われる痕跡がある。
また石積。
意外と広い。
主郭から3の曲輪にかけての南側斜面は、かなり急な竹藪密集地であり容易に踏み入る事が難しいが、おそらく段丘的な曲輪郡がかなり下まであるのではと思われる。
2の郭
「信濃の山城と館」にある2郭と3郭の間にある竪堀。
3の郭の北側斜面の曲輪群。4段確認できたがまだ下までありそうだ。
3の郭東側斜面の曲輪群。
細尾根。
「信濃の山城と館」には三段程の段郭の先は 描かれていないが、ここから延々と麓の果樹園まで大小の段郭が尾根伝いに続く。
意外にもきれいな削平地なのである。
ここまでこんな感じ。
3mから5mの段丘が連続する。
これらは、北信濃をめぐる甲越の戦いの初期には立地的に重要視され、武田方による改修をうけたものかもしれない。
最後は一際大きな切崖になっていた。
3郭から続く尾根は玄峯院の北側に出た。
振り返る。
この辺りの北側には沢が深い谷を形成していたが、未確認ながら「信濃の山城と館」にある主郭北側の段郭郡や、3郭北斜面の段郭をみるに、北方面の防備を意識しているようにも思えた。
篠の城の図 |
無論実測無しで適当に地形図に落とし込んでみたものだが、明らかな尾根とのずれはミスである。
「信濃の山城と館」でみるところの主郭の北側、5の郭以北は未調査。宮坂氏の縄張り図をそのまま充てている。2と3の郭の南側は竹藪密集地で未調査。3の郭の東側尾根には宮坂氏の縄張り図に描かれていない曲輪群が麓まで続いていた。これだけの山城であるので、二重堀以南の墓地のある台地周辺にも防御面でにもう少し遺構がありそうである。
2017秋
2018、12月有旅城の件に追記。
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