地元の人に聞けば詳細な場所もわかるだろうが、おそらく写真の辺りのどこかが「大輪寺跡」と思う。
「大輪寺跡」
大字上田新田にある「大輪寺」はもと畑山にあったものである。真田昌幸夫人が開基した寺で、天文年中兵火にかかり、慶長年中 真田昌幸が新田に再建したものである。 ●所在地 2675 番地南付近か 寺屋敷と呼ばれている(「神科を歩こう ―上田市神科地域文化財の現況―」(2013年)より )
文脈だと、畑山に昌幸夫人が開基した寺が天文年中兵火にかかり、後に真田昌幸が再建と読んでしまうが、年代的にありえないので、畑山にあった寺が天文年中兵火にかかり、昌幸夫人の発願で昌幸の再建と読みたい。
創建や詳細は不明。
村上氏が小県真田に侵出したのは、応仁二年(1468)の千葉城(洗馬城)攻め(「諏訪御符礼之古書」)以降と思われるが、寺伝では天文年中の兵火としているので、天文十年(1541)「海野平の合戦」で海野氏が敗れ真田幸隆らが上州に落ちた頃の可能性が高いかもしれない。
仮にそうだとすると、村上氏が小県真田に侵攻した為の焼失なので、元は海野氏の関係の寺だったのではと考えられる。
村上氏関係も考えられなくはないが畑山には村上義清が創建という「竜洞院跡」があり、同一集落に二つの寺の創建は考えずらい。
「竜洞院」は、畑山に応永年間(1394~1428)から五代続いたとされる「鳳林寺」がはじめで、永正十七年(1520)砥石城主村上顕国の院号から龍洞院と改称開山したという。
おそらく「大輪寺」も「鳳林寺」(或いは同一寺か)も海野氏の関係の寺で、応仁二年(1468)以降に村上氏によって焼失したものと思われる。
たしか「村上義清伝」(志村平治著)に、村上氏が伊勢山に隠居したという話があったが、村上政清(満清・政国)(明応二年(1493)隠居し翌年卒)であったか?、その年代も失念した。
ともかく、畑山が村上氏勢力下に置かれたのは応仁二年(1468)村上氏の海野氏の千葉城攻め以降と思われるので、年代的にどちらも元は海野氏関係の寺と思われる。
大輪寺は天正年間(1573~1593)真田昌幸の夫人寒松院(山之手殿)の発願で上田市新田に再建されたが、後に真田氏の松代移封(1622)で松代に移り「寒松山大林寺」と称している。上田に残った「天照山大輪寺」は仙石氏、松平氏の尊敬を受け現在に至ってる。
現大輪寺は、上田城が築城される天正十一年(1583)頃かそれ以降に外郭防御施設の一環として建立されたものであろう。
どういった経緯で寒松院の発願に至ったのかは分からないが、真田氏が再建するに足る理由があった寺院だったのかもしれない。
詳細な場所はわからないが。
真田から見た畑山集落。
大輪寺跡の裏山は戸石城の南端部で金剛寺峠である。この峠は金剛寺から畑山を経て傍陽へ向かう松代街道の要所で、経路がはっきりしないのだが大輪寺の役割もおおよそ想像されそうである。
畑山神社から見た大輪寺跡方面。戸石城。
2020、3月初訪
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