天照山大輪寺。
曹洞宗。本尊 釈迦牟尼佛。
寺伝によると、もとは神科の畑山に在ったが天文年中兵火にかかり焼失。天正年間に真田昌幸の夫人寒松院(山之手殿)の発願で現在地に再建となった禅寺であるという。
真田氏の松代移封(1622)で松代に移り「寒松山大林寺」と称したが、上田に残った大輪寺は仙石氏、松平氏の尊敬を受け現在に至る。
現在の大輪寺の堂宇は宝永二年(1705)に再建されたもので、真田家が善光寺を修復した際の木材を払い下げをして使用したと伝えられえている。
寺には、雪舟筆の維摩居士像や観音像、梵字阿弥陀三尊曼陀羅、茶の湯の釜など寒松院寄進の品々が今も残っているという。
大輪寺の裏手墓地には「寒松院の墓」があり、ほかに仙石忠政に上田城再建を委任された普請奉行の原五郎右衛門の墓や、農民美術運動を広めた山本鼎の墓、江戸時代の俳人加舍白雄を輩出した加舍家の墓地があるという。
畑山に在った頃の創建や詳細は不明。
「大輪寺跡」大字上田新田にある大輪寺はもと畑山にあったものである。真田昌幸夫人が開基した寺で、天文年中兵火にかかり、慶長年中 真田昌幸が新田に再建したものである。 ●所在地 2675 番地南付近か 寺屋敷と呼ばれている(「神科を歩こう ―上田市神科地域文化財の現況―」(2013年)より )
文脈だと、畑山に昌幸夫人が開基した寺が天文年中兵火にかかり、後に真田昌幸が再建と読んでしまうが、年代的にありえないので、畑山にあった寺が天文年中兵火にかかり、昌幸夫人の発願で昌幸の再建と読みたい。
畑山は「戸石城」の麓なので古くは海野氏の関係の寺と思われる。村上氏関係も考えられなくはないが畑山には村上義清が創建という「竜洞院の跡」があり、同一集落に二つの寺の創建は考えずらい。昌幸が再建したところをみると、やはりルーツである海野氏に関わる寺と考えるのが自然である。
寺伝の天文年中兵火とは、天文十年(1541)海野平の合戦で海野氏が敗れ真田幸隆らが上州に落ちた頃の可能性が高いか。
仮にそうだとして、天正十一年(1583)に真田昌幸が上田城を築くまで40年ほどの間がある。寒松院の発願で再建とされる事とのつながりが見えないのだが、そこは方便のようなものか。
あるいは、山之手殿と呼ばれることから畑山が主な給地であった可能性もあるが確証がない。
慶長年中(1596~1615)の再建とある根拠はわからないが、大輪寺開山は甲府市恵運院二世光厳東旭大和尚の弟子で三世松山存宿大和尚という。弟弟子の葉山存荷大和尚は慶長十二年(1607)真田昌幸の弟、真田宮内之助高勝(信光)の菩提寺高勝寺(現龍顔寺)を開山している。
この頃盛んに寺院が建てられた可能性もあるが、慶長五年(1600)「関ケ原の合戦」後には昌幸、信繁父子は九度山に幽閉されている。
この慶長年中説の可能性としては、豊臣政権の少閑期。真田家の行く末安泰を祈った寒松院の発願で大輪寺が再建された。と想像力を膨らませることもできるが、やはり以下の理由で天正十一年(1583)からの上田城築城に際してのものと考えられる。
その中でも大輪寺は城郭然とした構えであったようにように見受けられる。現状では南に水堀があるが、東にため池があり、北の裏庭の池も水堀跡の可能性がある。西側には黄金沢が流れている。このように四方が水堀に囲まれた寺地はまさに城館としか言いようがない。
ただ、横並びの三つの寺の中で大輪寺が特殊であるということは、海禅寺、呈蓮寺と大輪寺とでは必要な機能が違い、また建造時期に若干の違いがあるとも言えるかもしれない。
天照山大輪寺旧所在地は、戸石城の麓、畑山にあったが、兵火で焼失した後に、天正11年この地へ移した曹洞宗の寺である。真田昌幸公(幸村の父)が九度山へ蟄居させられた後に、髪をおろした同夫人寒松院殿が開基であり、境内墓地に夫人の墓がある。
天照山とある。
参道。
白雄の句碑。
山門。
回廊。
本堂。
境内。
鐘楼。
東側の池。
寒松院の墓案内板がある。
寒松院(真田昌幸室)墓
寒松院は、上田城主真田安房守昌幸夫人、信之・信繁(幸村)の生母で、山之手殿と称した。出自については定かではないが、菊亭右大臣養女、また、信玄の養女として永禄八、九年頃昌幸室になったと思われ、昌幸没後二年を経て、慶長十八年(一六一三)六月三日卒した。
大輪寺は、寒松院殿がその発願開基であったので、同寺に葬ったものと察せられ、位牌も同寺にある。
この墓碑は、総高二百十一センチメートルで、二重基壇上に立っており、基礎上部に刻線で蓮弁が刻まれている。塔身は上下二重で、笠部の下部に斗栱型を作出し、上部に四段の段型を、四隅に隅飾突起を刻出し相輪は伏鉢、請花部を残して九輪から上が亡失している。
平成二十七年十二月一日
上田市教育委員会
教育委員会の説明板はこの位置ではないが、便宜上ここに紹介する。
墓塔の形状に違和感を感じるのは、別の宝篋印塔が組み合わされた石塔である為であろう。時代は中世末期のものらしいが、往時の姿ではないように思われる。
松代に移った「大林寺」にも「寒松院の供養塔」がある。
寒松院は生前、山之手殿、または京の御前と呼ばれていたようである。
出自には諸説あり「寒松院殿御事蹟稿」の各説。
菊亭晴季の娘(「滋野世紀」「真武内伝」など)、
宇多下野守頼忠の娘で菊亭晴季の養女(「滋野世紀」「取捨録」「樋口系図」など)、
宇田頼忠の娘(「諸家高名記」「真武内伝」など)、
宇田頼次の娘(「真武秘伝記」など)、
遠山右馬亮の娘(「沼田記」「続武家閑談」など)、
正親町氏の娘で武田晴信の養女(「綱徳家記」)
諸説論説があるが、高野山蓮華定院過去帳には「武田信玄養子」と記されており、上記の中では正親町(おおぎまち)氏の一族か、正親町氏と関係のある子女を武田晴信の養女して昌幸(武藤喜兵衛)に嫁いだとするのが説得力があるかもしれない。
「京の御前様」と呼ばれたのをみても京の公家に出自がありそうである。
永禄9年(1566)に信之が出生するが、その前に生まれた女子(村松殿)がいるため永禄7年(1564)頃に武藤喜兵衛(後の真田昌幸)に嫁いだのではと推察されている。
永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)、信繁(幸村)出生。
天正3年(1575)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田氏の家督を相続。
天正七年(1579)頃と推定される「小県郡御図帳」に、「京の御前様御料所」として真田町本原に何筆もの所領が見られるが、人質として武田氏の新府城にあったようである。
天正十年(1582)武田氏滅亡の際には新府城から脱出して上田へ帰還。
慶長五年(1600)七月、「関ケ原の合戦」の際も大阪に居て西軍の人質となったが、吉継の娘で信繁の妻である竹林院とともに大谷吉継に無事保護されたという。
一説に真田家臣、河原綱家の機転により大阪を逃れて上田に帰還したとの説もある。
「関ケ原の合戦」後、昌幸、信繁父子は九度山に幽閉されたが、山手殿は信之に引き取られ上田に留まり出家、寒松院と名を改め大輪寺に入ったようである。
慶長十六年(1611)6月4日昌幸は高野山で死去。寒松院は2年後の慶長十八年(1613)6月3日に死去。一説に昌幸の三回忌後にしたのではないかともいわれるが確証はない。
法名は「寒松院宝月妙鑑大姉」。
墓所は上田の大輪寺と松代に移された大林寺にある。
2019、5月初訪
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