発電所跡周辺が「竜洞院跡」で石垣が遺っているらしい。
「竜洞院跡」 神川蒼久保にある曹洞宗龍洞院は、もと天文年中村上義清が父顕国のために畑山に一寺を創建してその法名を寺名とし、本寺二世南渓を開山とした。天正8 年(あるいは3年)現在地に再建した。 ●所在地 畑山発電所大水槽付近(伝承) 建物はない(「神科を歩こう ―上田市神科地域文化財の現況―」(2013年)より )
どうやら、はじめ畑山には応永年間(1394~1428)の開創から五代続いたとされる臨済宗の「鳳林寺」があって、天文年中(1532~1555)に村上義清が父顕国のために畑山に一寺を創建。法名から龍洞院とし本寺である群馬県館林の青龍山茂林寺二世南渓正曹を開山としたということになるらしい。
一説に村上顕国公の没年永正十七年(1520)開山といい、また一説には永正元年(1504)、村上義清の祖父であった戸石城主の村上右京大夫が、鳳林寺を改名して一山正心を開祖として開創ともいう。
現龍洞院の伝に、畑山に百三十年余り続いていた臨済宗鳳林寺を曹洞宗に改宗して、自分の戒名龍洞院殿大器良通大禅定門から院号をとって寺名とし開基ともあり。また開山茂林寺の二世南渓正曹は義清の伯父、顕国の兄という。
永正元年 (1504)から百三十年前となると1370年頃。信濃における南朝方勢力が衰退した頃で、この頃建造された宝篋印塔が多く見られることと関係あるのかもしれない。
たしか「村上義清伝」(志村平治著)に、村上氏が伊勢山に隠居したという話があり、村上政清(満清・政国)(明応二年(1493)隠居し翌年卒)であったか?、その年代も失念したが、おそらく応仁二年(1468)村上氏の千葉城攻め以降のどこかで神科地域が村上氏勢力下に置かれたことは推測される。
畑山には「竜洞院跡」と「大輪寺跡」の二つの寺跡があるが、おそらく「大輪寺」も「竜洞院」の前身「鳳林寺」(或いは同一寺か)も海野氏の関係の寺で、応仁二年(1468)以降に村上氏の兵火にかかり焼失したものと思われる。
「鳳林寺」は村上氏により「竜洞院」と改称して開山される(一説に川中島から移されたとも)が、天文十九年(1550)頃、武田信玄、真田幸隆らの砥石城攻めのとき焼失。天正5年(1577)あるいは天正三年とも八年ともされるが現蒼久保上青木に再興したという。
ちなみに「大輪寺」は天正年間(1573~1593)真田昌幸の夫人寒松院(山之手殿)の発願で上田市新田に再建されいてる。
大水槽付近と伝承されいてるようだが、大水槽がどれかわからない。
絵図では発電所跡の南側、戸石城の山裾から神川の間のどこかだと思われる。
しかし「砥石・米山城の里 散策マップ」では、発電所跡の北側にポイントされている。
竜洞院跡から見た真田方面。
2020、3月初訪
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