現在、城域は千曲ビューラインが貫通し、①と②の郭は土取り場として殆んど破壊されてしまっている。
「信濃の山城と館」には①郭に土塁や北西隅に物見の巨岩などがあるとある。確認していないが外側から見た現状では消滅しているのではなかろうか。
もしかして硲城と北の城は、元は立地的に森山城に近い関係だったかもしれない。森山城は最初岩村田の大井光長の五男宗光が入ったが、惣領家との相続争いから森山大井氏は追放、その後近江の守山氏が入り森山氏を名乗り耳取大井氏の傘下にあったという。
北ノ城の守りが北を意識しているらしいので、塩川城は小諸に入った大井氏に関係あるのかもしれない。
右隅奥が硲城で中央奥が北ノ城、左手奥の崖の見える山一帯は塩川城である。
①と④、❨オ❩の田切地形がよくわかる。塩川道はこの田切を通って耳取や森山に通じていたのだろう。
左には塩川城と北ノ城。塩川道はこの辺りを通っていたのかもしれない。
西側からみた①の郭。
西側からみた❨オ❩の田切。
西側からみた④の郭。
❨オ❩の田切からみた①の郭。
千曲ビューラインからみた①郭。
千曲ビューラインからみた②の郭と❨エ❩の堀。
東側から見た❨ウ❩の堀。
東側から見た③の郭。
この峡は硲城のはざまではないか。
2019、10月初訪
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