2019年11月8日金曜日

硲城@小諸市大字耳取

硲城は小諸から千曲川沿いに南下する塩川道をおさえる場所になり、耳取大井氏の拠点耳取城の北の関門にあたる支城であるという。
現在、城域は千曲ビューラインが貫通し、①と②の郭は土取り場として殆んど破壊されてしまっている。
「信濃の山城と館」には①郭に土塁や北西隅に物見の巨岩などがあるとある。確認していないが外側から見た現状では消滅しているのではなかろうか。

隣接する北ノ城も名のごとく耳取城の北の守りの一環とされ、更に深い田切を挟んだ塩川城も謂れ不明ながら気になるところである。
もしかして硲城と北の城は、元は立地的に森山城に近い関係だったかもしれない。森山城は最初岩村田の大井光長の五男宗光が入ったが、惣領家との相続争いから森山大井氏は追放、その後近江の守山氏が入り森山氏を名乗り耳取大井氏の傘下にあったという。
北ノ城の守りが北を意識しているらしいので、塩川城は小諸に入った大井氏に関係あるのかもしれない。


小諸大橋からの遠望。
右隅奥が硲城で中央奥が北ノ城、左手奥の崖の見える山一帯は塩川城である。

西側から見た硲城。
①と④、❨オ❩の田切地形がよくわかる。塩川道はこの田切を通って耳取や森山に通じていたのだろう。
左には塩川城と北ノ城。塩川道はこの辺りを通っていたのかもしれない。

西側からみた①の郭。
西側からみた❨オ❩の田切。
西側からみた④の郭。
❨オ❩の田切からみた①の郭。
千曲ビューラインからみた①郭。
千曲ビューラインからみた②の郭と❨エ❩の堀。

東側から見た❨ウ❩の堀。

東側から見た③の郭。

出典は忘れたが❨小諸市誌か❩、玄江院から小諸道を北へ七丁、長林の南端から西へ別れる道を下街道といい、旧小諸街道で五丁程行ったところを峡と言って、天正年間、大井氏の刑場の在ったところとある。田口の新海神社の三重塔は当時の罪人の所持金で建てられたのだという。
この峡は硲城のはざまではないか。

2019、10月初訪

0 件のコメント:

コメントを投稿

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...