2018年11月30日金曜日

男石神社@上田市殿城赤坂

陽石神社とも。
祭神はよくわからないが、鳥居には「男石大明神」とある。

この神社には数多くの男根の絵馬が奉納されており、縁結び・子孫繁栄・五穀豊穣などの祈願と、願いが叶ったお礼の印に収められ、上田市の有形民俗文化財にも指定されている。神社の背後には枯山水式庭園の原形とおもわれる見事な岩壁があり、パワースポットと呼べる場所となっている。(真田三代に出逢うMAP砥石米山城・水コースより)

男石大明神。

鳥居の先には隋身門。
そういえば上田市古安曽の安曽神社にも大きな隋身門があった。

隋身門の左側。二神像のかわりに…明治期までは天井に届くほどだったというが、明治政府によって全国からこの手のものは姿を消したという。
右側には何もなかった。

天然石をくり貫いたらしい水盤。

小さいながら立派な拝殿。

男石神社。

写真にある「金山神社」というと、かなまら祭で有名な神奈川県の金山神社(俗称かなまら様)が思い浮かぶが、金山比古神と金山比売神の二柱を祭神とし、鉱山や鍛冶の神であると共に性の神でもあるという。
しかし本来、金山比古神は鍛冶の神であり、岐阜県垂井町の南宮大社の金山祭は通称フイゴ祭と呼ばれ、古式ゆかしく鍛錬式があるものであり、同社には鉱山や金属関係者が参拝に訪れるという。

男石神社が瀧宮神社瀧水寺に隣接し、それらが水に関わり、さらには「タタラ」に関連する神社と思われることは非常に重要だと思う。
また瀧宮神社が諏訪社であることも大切で、諏訪神社も男根信仰がある。
推測するに、男石神社は本来はタタラに関連する神(金山比古神か)として古く在ったものが、やがて諏訪神や金山神社と混同されていったのではないか。
神社脇の古道には遊女宿が数軒あったという。そういった時代背景もあったかもしれない。
社殿に奉納された絵馬は、元禄の頃のものから明治の頃までがあるという。
男石神社が古来からこの場所に在ったかはわからないが、神社自体は江戸期のものとおもわれる。

主殿横の小さな拝殿。
こちらには陰石が。
一説にある女石神社とはこれかも知れない。



男石神社横の斜面が枯山水式庭園の原形という岩壁?になるらしい。

 天然の枯れ山水か。

大阪芸術大の福原成雄教授によると、平安時代の庭園書である「作庭記」に「枯れ山水」という言葉が出ており、そこに「片山の岸」など斜面に枯れ山水を造るべきだとの記述があるという。
つまり、枯れ山水とは古くからの自然崇拝の名残をとどめる文化ともいえるのかも知れない。

話しはそれるが、すぐ近くの出早雄神社は「延喜式内社」に記載が無いが、もっと以前の「日本三代実録」に正五位下にまで叙せられているとある事から、平安時代初期に保護者である有力者がこの地に在ったとみられ、それは真田氏の祖であろうとする考え方(一志茂樹氏)もあるという。


その有力者もこの近くに館を構え、この枯れ山水を愛でたのかもしれない。


岩壁登ると平地があり、ほこらが並んで建っているというので登ってみた。

石祠と墓石、五輪の残欠らしものがみられた。

もう少し登ってみたが山一帯は畑作の跡だった。

男石神社と瀧宮神社の間にある磐座。
平面に何か刻まれているかと見たが何もなかった。何か伝承が残されてもよい存在感。

古い道と男石神社
男石神社横の未舗装路は旧上州街道であるらしい。
この古道沿いに男石神社、瀧宮神社、瀧水寺沿が並んでいることになる。
左の見切れた石が日本武尊伝説の「御座石」らしい。





2017、夏初訪

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