月輪寺廃寺石塔群 |
望月の印内は江戸時代初期まで院内であり、ここに中世から近世まで月輪寺があった。
墓地の説明板や「望月氏の歴史と誇り」によると、伝承として「大同年間(806-810)に開かれ、四〇〇年間を経て大破したので、建久二年(1191)源頼朝が改修再建した」という。
五輪塔の銘文、望月仲重の正嘉二年(1258)などから鎌倉時代中期には存在していたと思われるが、望月氏の菩提寺の性格が濃いとされる。頼朝再建の信憑性は低いが鎌倉時代の初め頃に月輪寺が存在しなかったとも言い切れない。
天正年代(1573-92)に焼失し、望月氏も勢力を失ったことから戸隠山の末寺となり、近世領主の交代によってだんだん寺領を減らされ、明治六年(1873)廃寺となった。
月輪寺跡 |
これはすぐ隣の竹藪のはばに埋もれていたものを村人が現状のように整えたものという。
写真山中に見える小屋は石尊神社の祠で、そのすぐ右側が石塔群である。
すぐ隣の竹藪とは祠の左側に見える竹藪のことか。
印内公民館前の細路地。
寺地から、県道を越えた旧道まで参道がのびていたという。おそらくこの細路地が参道であろう。
旧道から参道へ入るところに惣門があったという。
公民館。
寺院の在ったのは中里坊の南寄り、上里坊との境に近い。
公民館横にも数基の石塔が残っている。
右の道すぐに石塔群がある。
右手は下里坊。奥は鹿曲川に至るまでの地名三千仏となる。
三千仏の意味は分からないが、学頭着地名から月輪寺に学頭が置かれ、坊の広さから、かなりの数の僧がいたと推測されている。
月輪寺跡石碑群の説明板。
入口付近。
馬頭観音等、この辺りは近世のものであろう。
左衛門尉仲重の銘のある五輪塔。
入口から撫でるように順番にのせてみた。
左衛門尉仲重の銘のある五輪塔の地輪。
「左衛門尉仲重
法名□□逝去
五十六歳
正賀二年戌午
三月廿九日酉尅」
とあるという。
「望月町誌」には法名の下は先学で「蓮生」と読まれているが、□蓮生と一字入るようだとある。また正賀二年戌午は正嘉二年戌午(1258)である。
どこにも望月とは無いが、月輪寺にあって、左衛門尉を名のり、しかも本名に「重」の字を用いていることから異議はなかろう。この塔は仲重の冥福を祈り供養の為に建立されたものである(「望月町誌」)という。
「望月町誌」では望月氏の諸系図に仲重の名はないが、銘文から建仁三年(1203)の生まれであることがわかり、仁治二年(1241)を最後に「吾妻鏡」の記事に見られなくなる望月重隆の子の年代にあたる。望月氏の系図は、重義ー重隆ー盛重(一に師重)と記されたものが多く、嫡子相続者がわかるだけだが、仲重は重隆の子にあたる庶子かもしれないとある。
左衛門尉仲重の銘のある五輪塔を囲む連結塔式笠婆。
復元すると笠の部分が繋がっているという。
先に石塔群は近くの竹藪から掘り出したとあったが、こうして形が整っているところをみると、この部分は初めからここに在ったものか、或は掘り起こした形状を再現して並べられたものであろうか。
そうでなければ、連結塔式笠婆の中が誰であったのかは不明ということになる。
ほか、延慶元年(1308)、建武二年(1335)、暦応二年(1339)、興国七年(1346)、応永一〇年(1403)、文明八年(1476)、文明十三年(1481)、延徳元年(1498)、明応二年(1493)の銘が確認できるという。
詳細は分からないが、歴史はごく浅いものと思われる。
また、月読命に関する伝説のある城光院の月輪石は、もともと月輪寺にあったとされる。
2018、7月初訪
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