2019年1月17日木曜日

二柳神社城@長野市篠ノ井二ツ柳



麓からは朱い鳥居と社叢がみえる。二ツ柳氏の城で二柳神社城と言われている。

二ツ柳氏は村上氏の庶流であるといい、鎌倉時代に地頭となり地名の二柳氏を名乗ったという。初代は国高、子の二柳国忠は源頼朝に仕え、藤原泰衡に対する奥州合戦の時、軍功があって信濃国の夏目村の地頭職を与えられ、その二男の国平は二ツ柳家より分家し夏目氏の祖となっている。
寧ろこの城は大塔合戦の悲劇の古城としての認知のほうが高いようである。
しかし二ツ柳氏・夏目氏ともに後の大塔合戦時の史料には現れない為、既に退転していたとされている。

麓の方田の石塔類。東西の道から北に向かう道の三叉路で、北側は横道という地字。東は大当。西は石川。

この変則的な道を行く。

金剛院の東側に石造多層塔の案内板がある。

金剛院の横を通り過ぎると鳥居がみえる。

神社の南側下の一帯を「のぎのくぼ」と呼ぶらしい。ここからは中世の陶磁器が出土したという。
写真は西側。右の尖った山は川柳将軍塚古墳で左に下がった尾根先が布制神社。その手前あたりに湯ノ入神社城が見えるか見えないか。中央左の山裾のどこかが塩崎城だろう。

東側。川中島、大当方面である。小枝でよく見えないが、中央やや右の赤い建物付近が「大塔の古要害跡」といわれる付近であろう。中央奥の尾根先が妻女山で、奥が松代である。室町時代を通してこの地は激しい戦乱の舞台となった。

振り返ると金剛院の屋根がみえる。
中央の有明山の麓近くに屋代城や森将軍塚古墳がある。

気付いたところを図に描いてみた。
登城する。
うん期待感。

参道を行くと「黄金沢(こがに沢)」が横切っている。
この沢が天然堀となっているが、向って参道左脇に土塁状の盛土がみられ石祠が祀られていた。長さは無く、参道の右側には見られないが、ここに参道があり祠が建つことからみて木戸なりの名残かもしれない。

土塁状盛土の脇を降りると桝形かと思える平地がある。勿論昔より改変はされているのだろうが、盛土に木戸が在ったとすれば桝形の類いも考えられる。
右手は沢の下流側だが一段深く切岸になっているのも気にかかる。
この城が「大塔の古要害」としたら、「大塔物語」にある「水堀」がこれに当たるものか。
また二枚目の写真中央上から左下に斜めに堀切がはしるのが見えるが、この場所が主郭を廻る堀の外側であることがわかる。
斜めに下る堀切は階段を横切り、沢にまで達していたように見受けられるが、階段の右手にも窪みが見られる。
この場所が大手としたら、堀底が登城路であったかもしれないが、大手としては東側の横道からの沢添いも気になるところである。

城側から見た黄金沢と右奥の土塁状盛土。

黄金沢は東側が一段低くなっているが何を示しているのか。

堀切の上が主郭である。

主郭は神社境内で、現在は石垣で方形に整地されているが、本来は堀の形状から円かったであろうと「信濃の山城と館」にある。


二ツ柳神社神社祭殿。
祭神 建御名方命。つまり諏訪社である。
創立年月不詳。養和年間、木曽義仲により焼失。後、天正に再興したが焼失。正徳5年再興、寛政5年社号許す。安永8年本殿改築、明治41年9月、神饌幣帛供進社に指定される。(長野県神社庁)

境内西側。

境内東側。

拝殿奥の本殿は石垣で高くなっている。
この石垣自体は近代のものと思われるが、本来も高台があったものだろう。

本殿のある高台は横に長くそこに石祠が祀られている。


東から見た本殿。


階段上から。
さて、最大の見所の一つであるこの堀跡は、既出の南側の階段付近から東側を廻り北側までコの字に在ったようである。

斜面の中程にある堀と道に挟まれた郭状平地。

傾斜の最上部付近。

東側は石積が見られるが、おそらく後世のものだろう。

北の隅の内側には土塁がある。

北側。浅いものだが外側に土塁を伴っているようにもみえる。

北側から西側にかけては、現在は道路が通っているが、黄金沢に落ち込む急斜面まで通っていたと思われる。

西側の石垣は道路を通したときのものと思われる。

南隅の斜面であるが、橋の先の道路には若干の傾斜に弛みが見られるものの、直接沢に落ち込んでいたものと思われる。
二枚目は少し引いた写真で、橋の袂に土盛があるが橋も道路も後世のものと確認できるのだが、右手の畑が低い事もわかり、妙に平地である事に気付く。
三枚目は同じ所から道路反対側を見たところだが、左の立木の所が鳥居である。左右の畑の稜線が合わないのは、この道と参道との間の平な畑地に二ツ柳氏の居館、或は小屋掛けしたものではと思わせるものである。

主郭西北側の黄金沢沿い。
どうやら沢はずっと上流まで堀として機能していそうで、この上の畑地も「しゃかどう」と一体地だったと思われるが、その一段下の細長い平地。
上の畑地から見たその末端付近。

その上流、畑の北端。

前後したが、写真中央の「笹平住環」という道は、おそらく後世に「しゃかどう」土手を掘って縦貫したものとおもわれる。

また後述するが、北側に湯ノ入神社城にも見られるような砦らしき遺構があるので、「しゃかどう」一帯も城域と呼んでよいだろうと思われる。
沢を渡った西にもちょっとした平地がある。

湯ノ入神社の北側の上が「しゃかどう」。
「しゃかどう」からみた二柳神社城。

北側は「しゃかどう」地籍で、「釈迦堂遺跡」という寺院の跡であるという。
「信濃の山城と館」には「方田山大塔院作見寺」とあり、結構な広さの平地で、「大塔の古要害」とはここではないかとの説がある。
また多数の人骨が出土しており、大塔合戦で籠城した兵たちの遺骨ではとも言われている。
「方田山大塔院作見寺」等の資料を調べてないが、大塔の語源はここにあるのかもしれない。

釈迦堂遺跡の石塔群。
多数の人骨の出土は寺院の跡なので当然ともいえるが、石塔の残欠が散乱するこの場所に立つと「大塔の古要害」は或はここかと思えてしまう。
因みに、大当の「大塔の古要害跡」」近く、御幣川の宝昌寺は大塔合戦の戦死者を葬ったと伝えられている寺である。

北東から見た釈迦堂遺跡全景。
奥の林が二柳神社境内、城跡になる。

釈迦堂遺跡の北東は、写真に見えるようにコンクリートの道が横道方面に通っているが、「信濃の山城と館」の縄張り図では掘割を示すようにみえるが、寧ろ土塁状の盛土になっていた。

現状では道の向こう側が深い切岸になっているが藪で状態は分からない。おそらくこの切岸までが城跡ではなかったかと思えるのだが、この下の地籍は「善司坊」とある。
写真の様に眼下に郭状の平地が見えるのが善司坊と思われるが、切岸に囲まれた要害に見えなくもない。今回はそこまで足を延ばしていないが、或はそこも城域としてもよいようにおもえる。

コンクリートの道を横道方面に下ったところ。
せっかくなのでこのまま下る。

東側から。左の森が拝殿のある二柳神社城主郭部分。

城跡からは沢添いに社叢であろうか、麓近くまで東南に細長く森林が続いている。
その先端付近は横道というらしく、居館などに付属する地名という説があるが二ツ柳氏の居館はこの辺りだったかも知れない。

二柳神社城東側から大塔方面。
緩やかな斜面で全くの無防備な地形である。

そのまま二柳神社城東側の道に戻るまで長閑な林檎畑だった。
こう見ると、やはり南の鳥居から入った木戸から沢を渡り、斜面の堀底を登るのが大手にあたるように思えるがどうであろう。
東側は堀脇の斜面から「しゃかどう」を形成する斜面、東の道路までが防御網で「善司坊」も含まれるかもしれない。
問題の北側は二柳神社城域より高くなって登っているが、柳澤地域でようやく平になる。
その何処にも防備施設が無いとは考えられない。


さて
「しゃかどう」に戻る。
「しゃかどう」北端から。釈迦堂遺跡と二柳神社城の全景。

「しゃかどう」を抜け北へ向かう「笹平住環」道。

結構な急坂をいくと道が二股になる。
左が柳澤への道で、右はやがて林檎畑で終わるが、中央の高みが湯ノ入神社城にも見られる「みのわ」に対応する砦らしき遺構である。

北から見た二股道の上の削平地。
左は下って林檎畑、右手は「笹平住環」を挟んで黄金沢という要害である。
写真中央の先端付近には土塁状の高まりがあって、北側には堀跡と思われる窪地もある。

先端付近の土塁状の高まり。
見下ろす。

北方面を見る。
北側の堀跡と思われる窪地。

「笹平住環」を見ると、本来はそのまま黄金沢に落ち込んでいたことが想像できるし、沢が道路側に切り込んでいる所の延長が、堀跡状の窪地の延長線上ともおもえるのである。

少し北側からみたところ。
電柱の奥が推定砦の跡地。沢の竹林が道路に迫っている辺りが窪地付近で、本来は堀切として繋がっていたと想像できる。
これらが砦の遺構とすると、まさに湯ノ入神社城と瓜二つとよく言われるという言葉通りといえる。
さらに以上の検証から、よく言われる「大塔の古要害」としては手狭というのは当たらないのではとも思うのである。

二股道を右に行くと、橋の欄干?不明の遺跡。


せっかくなのでもう少し登ってみた。
こんな眺め。
坂の頂上付近の石は何かの標か。

すぐ上の平地は柳沢集落である。
柳沢は布施氏及び平林氏の所領だと思われるが、鎌倉期に豊栄の平林氏所領の問題で二ツ柳氏系図にある平林西仏があるので、当時は深い姻戚関係にあったものと思われる。

東側から見た二柳神社城全景。
石川条里制水田という豊な地の地頭であった二ツ柳氏だったが、故に強固な要害とする所が限られていたのであろう。
自然の地形を巧みに利用した良き城郭であるとおもう。




2019、1月初訪





2019年1月1日火曜日

大御堂跡@東御市和深井

「東深井区誌」に、字堂裏に「おおみどう」という字地があるが「大御堂」であり、近くの民家がその名で呼ばれるているが、その家の100m程の所に大御堂という立派なお寺があった事に由来するとある。
「小県郡史」には、大伴連忍勝(774死)が大平寺村に寺を建てたと記してあるが、「小県志略」(幕末、上田市原町の成沢寛経著)には、大伴連忍勝の寺は堂裏の大御堂であって、今その礎石が残っていると記しているが、現在はないという。
昭和27年に一志茂樹氏が視察し、大御堂の跡地を指摘したが忍勝の寺かどうかはわからないと言ったという。
同誌では、もし忍勝の寺とすると奈良朝のこととなるが、この跡地には室町時代と思われる五輪塔が無数にある事から、それ以前には大御堂が在ったのは確かであろうとしている。
さらに、「み堂」と尊称したうえに「大」の字を冠していることは一通りでなく、平安の昔、一世の権勢者御堂関白藤原道長のことなど思い合せて、尋常一片のものでないと思うとあるが、それは今なお謎のままである。

371番地から380番地に至る約2000坪(6600㎡)が境内で、371番地が寺の跡地とおもわれている。

北東隅の写真で、畑地が371番地の寺の跡地とされているところ。
道路の奥は西深井集落。右手は北で「権現堂」の字地だが、付近一帯は畑地である。

東側側面。

南東隅。

南側側面の道路。
この道路南側の地籍は大門というから、正面は南面であったかもしれない。ちょうど中央に小林家の墓地があるがそこか。

南西隅は北に直角に折れている。奥の家が「おおみどう」の名で呼ばれるている民家になろう。

境内跡、中央付近の墓地付近か、その北の石垣に見えるところが五輪塔群があったという場所だと思われるが、土地所有者さんに遭遇出来なかった為に外から撮影したが、中央の小屋の裏が塚のように見える。
近寄れる機会があったらまた更新したい。
五輪塔群は、かつて畑の畔畔に無数に積み重ねてあって、見学に訪れる人も多かったようである。しかし昭和大戦後には盗んで庭石などにする者などもいたらしく、大部その数が減ったという。



吉田堰に発する中堰は東深井集落を抜け、深井氏居館跡脇を通り大屋に下り落ちて千曲川に注いでいるが、大屋の旧道に架かる橋が御堂沢橋という。
中堰に違いないのだが、「さくえもん林」の上から笠石川と呼ばれているらしく、御堂沢橋には「笠石川」の名が記されているという。

 現在橋は改修され、「みどおさわはし」の名も「笠石川」の名も記すものは見当たらない。
  「東深井区誌」に、これらの地名や旧称の消滅や塗り変えを危惧する記事があったが、これでは町歩きをしても何川の何橋かも分からない。
 現状ではグーグルアースで旧橋の画像がみられるが、確かに「みどおさわはし」と「笠石川」と記されたプレートが確認できる。

この「みどおさわはし」の「みどお」が「御堂」であって、現在東深井を流れている川(中堰)は、かつては大御堂跡を流れていた故に伝わった名ではないか。といったことが同誌にある。
つまり東深井区と大御堂の間辺りを流れ、鷺坂を下り御堂沢橋に流れていたと想像されるのである。
みどおさわはし
大屋に一対の仁王像があるが、寛保の大洪水でその一つが押し流され御堂沢橋の下に沈んだといい、そこを今も仁王淵というという。
その時残った一つの仁王像は大屋の今の堀内理髪店の東隣に長く鎮座し、昭和三五年に街区整理でその跡地は柳澤時計店となり、仁王像は竹花医院の病室の東に移されたという。
これには田中の法善寺の仁王像の一基が流され大屋で拾われたとの説もある。
「東深井区誌」では、現存する仁王尊辺り一帯は塔の原という地名で、御堂沢橋があり、その上流と推測されるところに大門、大御堂、さらに北に権現堂があるなど、何か一連の関係がある様に思われるとある。


大御堂が大伴連忍勝の時代まで遡るかは分からないにしろ、この場所に古い寺院が在ったことは確かなようで、発掘などすれば埋もれたという礎石なども見つかるかもしれない。
この辺り、中世には海野氏の執事であった深井氏の所領する地であったが、深井氏には貞元(貞保)親王と深井某の娘に生まれたのが海野氏であるとの伝説が残るほどの古族である。
海野氏は大伴氏を祖とするという説とあわせて、そのあたりが落としどころかも知れない。

北東にある「琵琶塚」。
謂れは知らないし、琵琶石や琵琶塚自体がどれであるのかよく分からないが、中堰はかつてこの脇を流れていたという。

鷺坂には鷺石が在ったらしい。
付近は見張りを置くのに都合が良さそうな高台もある。




2018、12月初訪



足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...