2020年4月14日火曜日

願行寺跡(心光寺)@東御市本海野


北国街道海野宿の西、成沢川東側の道が緩くクランクしたところに「お堂」がある。
一見わかりづらいが、この「阿弥陀堂」が「心光寺」であるらしい。
「心光寺」自体の謂れ等は手元に資料が無いのでわからないが、この「お堂」の北側周辺が「願行寺跡」と推定されている。
本海野の「願行寺跡」は上田市「願行寺」と松代町「願行寺」の起源となる旧寺跡である。

推定「願行寺跡」

上田願行寺」の伝承によると、千曲川太鼓淵の川底で村人が阿弥陀如来像を見つけ、時の領主滋野氏に献上。後に後裔である海野小太郎が海野郷岩下に御堂を造営し、松誉岌香上人を招き功徳山願行寺を開山。阿弥陀如来像を本尊としたという。
天文十年(1541)武田信虎、村上義清、諏訪頼重の侵攻により当主海野幸義は討死、兵火により堂宇、寺宝、記録などは焼失したが、唯一本尊である阿弥陀如来像は住職により持ち出された。
天正十四年(1586)真田昌幸が上田城を築城した際、山梨県甲府市帰命院の岌譽道山上人を5世に招き城下に中興開山。
元和七年(1621)真田信之の上田城下町整備により横町の現在地に再建。
元和八年(1622)真田信之の松代移封に従って松代にも願行寺が建てられた。
寛永二年(1625)当時の住職は霊夢の御告げで新たに本尊を迎え、善光寺如来は秘仏となり、十夜仏と呼ばれるようになったという。

「松代願行寺」の由緒書によると、天文年中(1532~55)、小県郡海野荘の海野左京太夫幸義が、祖先棟綱の菩提を弔うために開基。神科伊勢山(現上田市)、真田、上田表を経て、元和八年、真田氏に従って松代に移ったという。

「上田の早苗」(成沢寛経著)に
「願行寺ハ旧跡ハ海野新田ニアリテ其後今ノ追手御番所辺へ引移シ、[今按スルニ御番所後石垣ノ裏ニ六地蔵ノ石像一基アリテ松平隼人家庭ノ東追手ノ石垣裏ニ立テリ、霊験著シト云フ、此辺寺跡ト云フモアタレリ]又鷹匠町切通シノ辺トモ云ヘリ、今ノ願行寺ハ寛永ノ度当城築立[最初ノ城ハ一旦破却サセラレタレハ信幸更ニ築城セシナリ]節移ス所カ尋ヌヘシ[墓地ヲ検スルニ寛永以前ノ碑ナシ、或ハアリト雖ドモコレハ後年再造セシモノ也]当今ニ至迄海野新田ヨリ旧寺ノ地子ヲ収ムト云フ、」 より



西から見た北国街道、成沢川の橋。
街道がクランクしたところにお堂が見える。奥は海野宿。

「阿弥陀堂」とも呼ばれる「心光寺」。

「心光寺」の裏手にも宝篋印塔の残欠。井戸らしきものも見られる。
「願行寺跡」は、ここから北側段丘下までの線路を挟んだ一帯と推定されている。

段丘下の畑には石積みも見られるが、「願行寺」に関わるものかは不明。

段丘上の「兜塚古墳」は、500m西の「中曽根親王塚古墳」とともに、海野氏の祖とも考えられている大伴氏に関わるものではと推測されている方墳である。






2020、4月再訪

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