2017年7月24日月曜日

岩井観音堂と光明寺跡@真田町

長谷寺より2㎞ほど林道をのぼった岩井山の中腹の洞窟に「光明寺建立碑」(鎌倉時代)と「再建碑」(江戸中期)がある。 古くから白山信仰がこの地に広まっていたことを示す貴重な資料として「上田市指定文化財」となっている。

林道の途中にはこんな石塔も、もしかして種月庵跡かも?

登り口
登り口から見える岩屋





「光明寺建立の碑(弘長三年癸亥・西暦一二六三年・鎌倉時代) 光明寺建立 右建立弘長三年癸亥 九月二日 大乗菩薩桑門了然」
鎌倉時代の弘長3年(1263年)の銘。 碑文に刻まれた梵字は、白山大権現の仏である十一面観音を現すことから白山信仰の寺だったとされる。
真田町で最も古い白山信仰の遺跡で、鎌倉時代初期には岩井観音堂一帯が白山信仰の霊場であったことが伺える。

「光明寺再建の碑(安永四年乙羊・西暦一七七五年・江戸時代中期) 大工 横沢村 永井猪七 安永四年乙羊七月十七日 願主白山現住法印義慶 再献建岩井観音堂 当村若者中寒念仏 同行志之面々 現当二世 安楽」
安永4年(1775)の銘。

中央の十一面観音は、かつてあったろうとの事で平成二十五年(2013)に安置されたもの。


洞窟の上にも上がれそうだが滑落が恐いのでやめておく。
駐車出来る平地
光明寺跡や観音堂跡が何処であったか判らないが、駐車スペースの奥には石積と削平地がみられた。





奥にあるこの石積の右側は茂みに覆われているが結構広い削平地とおもわれる。或はこの辺り一帯が光明寺の中核であったのか。はたまた近世の作畑の跡なのか。



岩井観音堂と光明寺跡


面白いのは、麓の山家神社が、御神体とする四阿山をを背にしてではなく、ここ岩井山を背にして建っていること。
山家神社由緒によると、「創立年は不詳だが、景行天皇の御代(71~131)に日本武尊を合祀したと伝わっており、それ以前からなんらかの形で存在したと考えられている。」そうで、四阿山に白山が勧請されたのは養老二年(718)とされているが、「延喜式神明」(927)には山家神社と記載されており、白山社とはされていない。
おそらく白山信仰が郷里に広まり、光明寺が建立された鎌倉時代の弘長3年(1263年)に遠くないころに山家神社も白山を勧請、四阿山を奥社としたのではないだろうか。
但し、山家神社は「天安二年(858)、あるいは久安年間(1145~1151)のいずれかに、洪水によって岩井山にあった社が流れ現在地に留まった。」とあり、現在地においても一度移転しており、また何度かの火災に見舞われて本来の山家神社のかたちは判りようもない。
しかし前記の理由から当時も岩井山を背にしていたもので間違いないだろう。
つまり、山家神社の本来の御神体は岩井山方向にあったと言うことになる。

のちの天文16年(1547)真田幸隆が岩井山の麓に真田山種月院長谷寺を建立したが、さらに奥に在ったらしい種月庵という無人の寺を元とするもので、上野に落ちる以前の真田氏との深い関連を示唆する。
光明寺は江戸期に再興されていることから一時廃寺となったであろうが、その期間は不明である。種月庵に取って代わったものであろうか

古来より人を惹きつける岩井山には、いったい何があるのだろう。
浅識ながら「岩井」は「いわい、 いはひ」で、 「祝う」(古くは祈る、祀る、崇めるの意)。「斎」( 神をまつること。神をまつる所。神をまつる人)。また「結わう」にも通じるものと思う。
岩井観音堂の南側には謂れは知らぬが達磨堂があり、なにより北東側には鬼が城がある。
鬼が城のある角間渓谷には毘邪という鬼の伝説があり、この近隣の山々が特殊なものである事をにおわせる。
鬼伝説は古の民を暗示し、白山の修験者も古の民との関連性を指摘する説もある。山家はサンカと読め、やはり古の民をあらわすとするのはこじつけであろうか。

戦国期以前の真田氏がそれらの者を保護、あるいは統治し、後に忍の者達として活用した事は大いにあり得る。さらに言えば、真田氏の出自のなぞにも繋がるのかもしれない。





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