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2020年3月6日金曜日

塩川城@小諸市甲字城の内

千曲川の断崖と繰矢川の渓谷に挟まれた台地が塩川城の中核とされる。
北方の台地とは「越後堀」と呼ばれる天然の堀で切り離され、一ヶ所の土橋のみが進入口という独立した台地である。

「小諸市誌」では、単純な構造の平山城で、比較的短期間の利用ではとし、この地域の集落を基礎に戦国動乱の世に処して、地域住民たちの自衛の為の拠点として成立したものか、領主の意図によって築城されたものかは不明とする。
また、文明年中(1469~1487)大井美濃守が居城したと伝えられているが、仮にそうである場合、小諸の大井氏関係であるのか、耳取大井氏関係であるのかも不明としている。ている。

「信濃の山城と館」では、「越後堀」の北側にも遺構があるが成立が違っているように思われ、はっきりしたことはわからないが、遺構から「越後堀」の北側に館があり、「越後堀」の南側は有事の際の「逃げ込み城」ではとしている。

まず思うのは、繰矢川を挟んで南に相対する北の城との関連である。
北の城は北方を意識した立地で耳取城の北の守りの砦と考えられている。そのことは塩川城が南方の耳取大井氏ではなく、北方の勢力の影響下にあった可能性を示唆する。
塩川城の北に与良城があるが、この城も北方を意識した城であるようなので与良城の与良氏との関係がまず考えられるかもしれない。
さらに推論を進めれば、与良城から東の加増城に向かう蛇堀川ラインと、塩川城から糠塚山繰矢川城、乙女川を遡って柏木城に至る繰矢川・乙女川ライン。この間の地域の共同体的なものが一時期あったかもしれない。
柏木氏は小林氏であるようで、一説に与良城を築いたのは小林氏ともされる地域である。小諸の大井氏や耳取大井氏を背後に、もしくは挟まれて、柏木氏(小林氏)と与良氏を中心に、おそらく村上氏の勢力下時までは独立した小勢力が連携していたのかもしれない。

また、東の千曲川沿いには古道があって位置関係からまったく無関係とも思えない。
硲城が耳取城の北の関門というのなら、塩川城は与良城の南の関門といったところか。
ただし、明治初期の耳取村絵図を見ると硲城足下の水田一帯は字塩川である。
塩川地籍が北の城より南に食い込むところを見ると、塩川城は耳取大井氏側の勢力であった可能性が高いかもしれない。

成立が違っているという「越後堀」の北側遺構は、武田氏勢力下で勢力の再編成が起きてからのものではないか。大井美濃守が居城したという伝承はその時か。

以上あくまで筆者の推論である。
この地方の時系列がいまいち把握できていないが、大井氏、村上氏、武田氏と大勢力が変化する時代。そんな状況の中を生きていた人々に思いを馳せる事ができるのも史跡巡りの楽しみ方の一つである。


耳取も含めるこの地域一帯は、はじめ千曲川べりに水田が開けていたようである。
その水田地帯には小さな集落がいくつかあって、戦国期に自衛の為の砦を築いたものなのかもしれない。
世が落ち着くと台地上の小原地籍に移転したが、旧地には往古から祭祀してきた氏神を残している。池久保の諏訪明神は大池氏の氏神で、上塩川の天照皇大神宮はその昔塩川氏が勧請したもので、ともにそれぞれの氏族で祭祀されているという。(「小諸市誌より」)

小諸市には塩川姓が多い。一説に小諸の塩川氏は新田氏の末裔であるという。
新田氏というと南北朝期の新田義貞と関連付けてしまうのは安直な考えかもしれないが、この時代に信濃に入った関東武士の話しは多いようである。

「四隣譚藪」(吉沢好謙)に、耳取村の北に塩川牧があると記されているらしい。
信じるなら、おそらく鎌倉時代以前に私牧を経営する土豪がいて、その場所は手狭かもしれないが塩川城のところであったかもしれない。




小原集落から「越後堀」に架かった土橋を渡って、「城の内」と呼ばれる独立した台地に入る。
「越後堀」(ア)。
写真がないが、堀を渡った左に墓地があり高台になっている。

まず目に入るのは(2)の高台。
左奥には「高城」と呼ばれる(1)の高台が見える。
(4)の郭。
(ィ)の堀と土塁は藪でよくわからなかった。

(3)の郭へ。
(3)の郭の南端付近。
南から見た(3)の郭。
左は(1)の高台。奥に(2)の高台が見える。


「高城」と呼ばれている(1)の高台。
地元で城というのは、この高台をさすようである。
(1)の高台を南から分け入ると数段の郭が確認できる。
登り切ったところにある石祠。
二つあったようだが、一つは崩壊ししていた。
頂部。

(3)の郭と「高城」裾部。
居住区に良さげである。

「高城」の西側。
西から見た「高城」。

西側から見た(2)の高台の西端部。崖下は採土場で、採掘された為の崖らしい。

西の崖下。
「高城」からは立ち木で確認できなかったが、西への展望は良さそうである。
(2)の西側から見た「高城」。

(2)の高台の北側。

(2)の高台上は墓地となっている。
「塩川家の歴史」。失礼ながら写真を撮らせていただいた。
塩川城は塩川家縁故の城で、「高城」にある石祠は塩川家の氏神であるようだ。

(2)の近くから見た「越後堀」。

塩川城の中核とされる「城の内」を一通り一通り見てみた。
ここから「越後堀」の北側遺構を見てみる。

「越後堀」と(ウ)の堀跡。
(ウ)の堀跡が鍵の手に囲んだ(6)の郭。
(5)の郭の写真は撮り忘れた。

「越後堀」の土橋の東側一帯が気になるが未確認。ただ小原集落から繰矢川の渓谷に降りる道は確認した。
中段の田地を経て沢に至るが古い道であろうか。


塩川城の下には「神明宮」があり天照皇大神と豊受大神を祀る。
上塩川地籍かわからないが、その昔塩川氏が勧請したという天照皇大神宮はこれか。
近くの石積。祭祀遺構か塚か繰矢川の渡河に関わるものか。


千曲川べりから見た塩川城と北の城に水田。




2019、10月初訪

2019年11月8日金曜日

耳取城@小諸市大字耳取

耳取城大手北側の堀

大井氏は承久の乱(1221)の功により小笠原長清の七男朝光が大井庄の地頭となり、岩村田を本拠にして大井氏を称したのが始まりという。
朝光の子光長には七人の男子があり、三郎行光を継嗣とし、嫡子時光は大室、二男光泰は長瀞(長土呂)、四男の行氏は耳取、五男宗光は森山、六男光盛は平原に住し、七男の光信は僧になり、大井法華堂を開基したと伝える。
大井光長の四男行氏が耳取大井氏の始まりで、初め五領の館にあったのが室町中期以降の乱世になり、より要害の耳取に城を築いて移ったと考えられているようである。
その時期は応仁(1467~1468)、文明(1469~1486)以後で本丸付近から増築を繰り返していったものらしく、「信濃の山城と館」の縄張り図を見ると縦横600m超の範囲に及ぶ巨大な城とわかる。

耳取付近図
大井氏の勢力圏佐久平の西隅の千曲川の断崖上にあり、直近には、北に硲城北ノ城塩川城糠塚山狼煙台等があり、その東に森山城五ヶ城、更に東にいくと鷺林城や東城、長土呂館等、更に東は大井氏の本拠地岩村田の大井城に至る。
耳取大井の最初の拠点、五領の館及び五領城は千曲川沿いに南下した中山道の渡しのある塩名田付近になる。

直近の硲城は小諸から千曲川沿いに南下する塩川道をおさえる場所になり、耳取城の北の関門にあたるとされるが、隣接する北ノ城も名のごとく耳取城の北の守りの一環とされ、更に深い田切を挟んだ塩川城も謂れ不明ながら気になるところである。
もしかしたら立地的に北ノ城は森山城に近い関係かもしれない、森山城は最初岩村田の大井光長の五男宗光が入ったが、惣領家との相続争いから森山大井氏は追放、その後近江の守山氏が入り森山氏を名乗り耳取大井氏の傘下にあったという。
北ノ城の守りが北を意識しているらしいので、塩川城は小諸に入った大井氏に関係あるかもしれない。


耳取城居館跡とされる玄江院
城域の南側にある玄江院の場所が居館の在ったところという。南面は堀跡らしく低地がかなり広い範囲に広がつている。
大手まで廻っていたと思われる堀跡。

玄江院の東側面には土塁が残り、道路が堀跡の面影を残す。

玄江院北側の堀跡。
耳取城はおおよそ田切地形を利用している。この堀も細いが中島曲輪を形成する田切の延長と思われるが人工的なものかもしれない。

玄江院のすぐ北側には中島曲輪と南曲輪がある。
中島曲輪は住宅地、南曲輪は入口がわからなかったが墓地と社らしきものがみえた。玄江院の墓地か。
中島曲輪東隅の祠と社。
中島曲輪と祠。

県道78号から見た南曲輪。
北側の田切から見た南曲輪。

中島曲輪・南曲輪の北側は田切地形を利用した大きな堀で本丸、二の丸、三の丸、馬場、隠居屋敷が並んでいる。

三の丸。
三の丸内部は縁部が土塁状の土手が取巻くように見えるが近代に削平された為かもしれない。


馬場。
奥が隠居屋敷であろうが後ほど。
左が馬場で右手が三の丸。
この北側に観音堂曲輪、荒屋曲輪がある。
荒屋曲輪は墓地になっている。
荒屋曲輪と馬場の間の堀。奥に藤棚曲輪がある。

観音堂曲輪。
観音堂曲輪は県道78号によって分断され、東側に少しだけ残っているところに祠が建っているが熊野神社のようである。

二の丸。
奥の森が本丸付近。

二の丸前の県道沿いに石碑。
下の写真は観音堂曲輪と二の丸の間の道の本丸、西古屋曲輪への入口。
観音堂曲輪と二の丸の間の道を行くと、西古屋曲輪、本丸に到る。
左が二の丸、奥が西古屋曲輪。

おそらく西古屋曲輪はほぼ削り取られていると思われる。
写真中央がおそらく耳取城の別名である鷹取山であろうか。

観音堂曲輪と西古屋曲輪の境の堀跡。
「信濃の山城と館」の縄張り図にある、西古屋曲輪裏の見張の曲輪は確認できなかった。

中央の切れ目が西古屋曲輪と本丸の境の堀跡と思われる。

本丸もおそらくほぼ削平されていると思われ、西古屋曲輪同様西側のみ土塁状に残っているが本来の姿はどうであったろう。

本丸と二の丸の間の堀跡はしっかり残っていた。

本丸の奥には南曲輪が見える。


城域北側付近がもっとも遺構が残っている。❨転載「信濃の山城と館」の縄張り図❩
前出の荒屋曲輪と馬場の間の堀。

藤棚曲輪を廻る堀。
藤棚曲輪。

他にも藤棚曲輪から隠居屋敷付近にかけても堀形地形等見所が多い。

隠居屋敷。
東曲輪。

東曲輪と北曲輪・藤棚曲輪の間の堀。
この堀は南東方面へは道を挟んで大手まで続いている。筆者は耳取城最大の見所のひとつ思っている。

北曲輪の東の堀。
ここまでが城域のようである。

北曲輪。


さて、東曲輪と北曲輪・藤棚曲輪の間の堀は南東方面へは道を挟んで大手辺りまで続いているが、城域外と思われる堀の東側の丘陵に祠や古そうな木と墓地があり何らかの施設が想像されるが、この辺りには似たような地形がいくらか見られる。



大手の町並み。鍵の手もみられる。
大手の最東端、つまり城域の最東端。
道祖神の横の石橋供養塔が気になる。かつて堀に橋が架かっていたものか。また石塔の背後の丘陵の役割も気になるところである。

大手道祖神近くの推定堀跡。

大手南側の推定堀跡。玄江院前の堀から続いているらしい。


最後に、横から見た本丸と千曲川対岸から見た耳取城、鷹取山。

このように佐久平で有数の巨大な城であり見ごたえがある。
すぐ北に硲城、北の城、塩川城、等があるのに、南の五領の館及び五領城まではいくぶんの距離があるように思う。「小諸市誌」に、古い道が布施川が千曲川に合流する辺りから彌美登里神社付近を上り鷺林城に向かっていたとあることからも彌美登里神社付近に何かしらあったかもしれない。
対岸の御牧台上一帯は望月氏の勢力圏と思われるが千曲川対岸の桑山と山浦にはそれぞれ大井氏の関所が在ったという。




2019、10月初訪


足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...