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2019年12月29日日曜日

和合城@坂城町大字南条

太郎山から虚空蔵山の尾根に築かれた「村上氏連珠砦」群の最西端にある要害で、中世に村上氏が築いた葛尾城を本城とした支城の一つであるという。
千曲川にせり出した尾根の先端部は岩鼻の断崖で、古くから埴科郡と小県郡の堺で交通の難所であり関が置かれた要所でもあった。
坂城側の麓には「鼠」の地名があり「不寝見」のことと考えられ、古代に於ける不寝番が置かれたとも言われている。その岩鼻の断崖上に築かれた和合城には狼煙台が置かれたとされ、後に村上氏が利用したものとも考えられている。
天文二十二年(1553)村上氏が越後に落ちると、武田方の臣、多田氏が守ったと伝わる。
天正十一年(1583)には、上田城を築く真田氏と上杉氏が虚空蔵山を争っているが、和合城を含むと思われている。

上田市下塩尻方面から見た岩鼻の断崖と和合城。
右の少し髙い嶺は陣馬鳥越山で非常に見晴らしが良く、そのまま稜線を東にいくと虚空蔵山、更には太郎山山系に通じる。陣馬鳥越山の南下には物見城もあり、20近くあるという村上連珠砦の一つである。

岩鼻の往還には、北国街道「六寸街道の切通し」にあたる道が中世から使われていた可能性もあるが、山中を越える道もあったはずである。
現在の登山道がそれにあたるかわからないが瓦礫が見られるので、鞍部の辺りには木戸があったのではないか。
南下の先端部が城域で北方の尾根には陣馬鳥越山や菖蒲平(勝負平)の地名があるが、その辺りにも小屋掛できそうな平地が見られる。
真田氏が上田城を築いたとき上杉氏と奪いあった虚空蔵山とは、この山系一帯の城砦の総称とする説があるが、交通の要所である和合城か或いは麓の陣所である可能性がある。因みに虚空蔵山争奪戦で上杉軍は観音坂城に陣所を置いたとも言われている。


大堀切。

四の郭側の土塁。

四の郭。
「信濃の山城と館」にある四の郭と三の郭の堀ははっきりしないが両側の堀、土塁の段差から推定出来る。

三の郭。
三の郭とニの郭の間の土塁跡。
写真手前がそれだが、堀を埋めるのに崩されたのか一見わからない。奥の高まりはニの郭の土塁。
三の郭とニの郭の間の堀跡。
土塁を崩して埋めれたのか一見わからない。

脇郭。

ニの郭。
奥は本郭の土塁と石段。
ニの郭北側は土塁が廻るが「信濃の山城と館」にある南側の土塁は無いのだが。

本郭への石段と崩れた石積。

本郭。
周囲は石積の土塁に囲まれており、特に東側は幅5mの高台になり「信濃の山城と館」では一つの郭として扱われている。
狼煙台が置かれたところがどこかわからないが、以下のように確かに見通しはよい。

本郭から和合城全貌、陣馬鳥越山方面。
上田市街地方面。直接他の「村上氏連珠砦」群との連絡は難しそうだが、東御市まで見通せる。
上田市塩田方面。半過の岩鼻、須々貴城は眼下。遠く塩田城のある独鈷山。
坂城町と更級方面。葛尾城、三水城・孤楽城、出浦城、荒砥城、冠着山、塩崎、稲荷山まで見通せる。


鞍部がら和合城城域の反対側を少し歩いてみた。
急坂にかかる所にある祠。

菖蒲平(勝負平)。
陣馬鳥越山。
陣馬鳥越山から、高津屋城と足下にケムリの城、さらに下に燕城がある。
陣馬鳥越山から、燕城付近と上田市街地。
陣馬鳥越山から、上田市塩田方面。
坂城町と更級方面。稲荷山まで見通せる。


菖蒲平(勝負平)から見た和合城。


2019、12月初訪

2019年12月11日水曜日

満泉寺@埴科郡坂城町大字坂城

満泉寺は村上氏の居館跡に建てられた寺で、元は御所沢にあり、古くは修善寺といった。
現満泉寺のあるところは館跡の本郭にあたり、南北150m、東西170mに及ぶ回字形に堀を巡らしていたとされる。
館跡については村上氏館跡で。

村上山と号し、本尊は釈迦如来、曹洞宗上野国甘楽郡西之牧村長楽寺末寺であった。
寺伝では、応和三年❨963❩、天台僧延昌により御所沢に創建され、初め修善寺といい、後村上氏代々の菩提寺となった。
修善寺は永正元年❨1504❩、村上顕国の志願により曹洞宗に改宗、上州長楽寺三世の宝室見尊禅寺を請じて中興開山となし、顕国の法号満泉院殿にちなんで村上山満泉寺と改めた。天文二十二年❨1553❩、武田信玄の侵攻による葛城落城の際兵火にかかり焼失した。天正十年❨1582❩、上杉氏が川中島四郡を領した時、義清の子国清❨景国❩は上杉氏の命により松代海津城将となり、翌十一年❨1583❩、坂木に帰り、村上氏累代の墓所御所沢の満泉寺の荒廃を見て、先祖の冥福を祈って村上氏居館跡、木の下の現在地に寺域を移し緒堂を再興した。
本尊の石造釈迦如来座像は、もと修善寺の本尊で鎌倉末期の様式をもつものという。
刈屋原の泉徳寺、小県秋和の長昌寺は満泉寺の末寺として建立されたという。(「坂城町誌」)

門柱と「村上氏の居館跡」の石碑。

直角に折れた参道と石碑たち。


山門。

鐘楼。

本堂。


現満泉寺のある「村上氏居館」と、御所沢にあった「満泉寺」は、天文二十二年(1553)八月に葛尾城が落城し村上義清が越後国へ落ちたとき共に焼失した。
天正十年❨1582❩「本能寺の変」で森長可が信濃を去ると、上杉氏が北信濃を領有。山浦景国(村上国清)は海津城主となり父義清時代の旧領を回復。そのとき居館跡に満泉寺を移設再建したという。

御所沢にあった「満泉寺」は初め「修善寺」といった。
御所沢の修善寺跡付近には、「塔の平」、「シャガ❨志賀❩」の地名があって、「シャガ」は修善寺があったとある所で、「塔の平」には村上顕国の墓❨「村上顕国の碑」❩と村上関係家臣の墓という十基の墓石があり、村上氏の霊廟があったという。❨「名将村上義清」❨水出熊雄❩❩

永正元年❨1504❩、村上顕国志願に因って天台宗を曹洞宗に改宗、上州甘楽郡長楽寺三世の宝室見尊禅寺を請じて中興開山とす。❨「村誌」❩
村上顕国により改宗し禅宗満泉寺を中興開基(更埴人名辞書)とも伝わる。

義清が父顕国の法号満泉院殿にちなんで村上山満泉寺と改めた。❨「村誌」❩

天文二十二年(1553)義清の越後落ちに伴い焼失。
天正十一年❨1583❩、義清の子国清❨景国❩によって現在地、村上氏居館跡に再興した。





2019、10月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...