2018年8月21日火曜日

布施八龍大権現@長野市篠ノ井山布施

布施八郎直頼終焉の地
中央のこんもりした森がそうらしい。

布施八郎直頼終焉の地
ここより市道を北へ三百メートル程の所の、円墳状の地に、昭和四十五年七月に建てられた当時の長野県知事西沢権一郎氏の書「布施八郎直頼終焉の地」と共に八龍大権現の社殿がある。
毎年、五月の連休に遊谷(ゆや)、若林、山布施の三区の氏子でお祭りをする。

須立之城跡方面を望む。

道路沿いの斜面の上に祠がある。



説明板らしいが…文字の痕跡すらない。
社殿には扉すらないが、手入れがされているのか意外と綺麗。

布施八龍大権現とある。

社殿内の由緒書き
布施八龍大神社祭神由緒
祭神八龍大神は布施冠者八郎直頼公  又は布施下野守忠直公と云う  布施氏は
清和天皇々子貞保親王の後裔  公は布施頼久の次男  山布施須立の城に生る  才智衆に勝れ勇武の気象に富み  若年の頃は浪人となり山野に伏し諸国を遍歴して城池を研修す  後上尾城に来り住み家臣を布施大郷の諸地に配し開発に努められ  為に土民安康生業繁し郷土の前途洋々たるもの有りと云う  屈強なる士十八人卒弐百五十一人有り  永享年間村上氏と小笠原氏と衝突の際は村上氏方となり戦闘に参加せしと云う  将軍足利義尚に仕へて功有りと傳へらる  又安庭眞龍寺を開基さる  文明二年(1470)歳の暮山布施苅満田ねばこに居宅を建て松一本をかまどに立て新年を迎えこれより山布施の慣習になったと云う  文明三年(1471)諏訪の神主満実より布施大郷なるをもって二分し兄頼形を高田に弟の直頼公を平林に領主とするの指令あり  晩年子正直若年なるにより暫時有旅城の公の弟直長に家督を譲らる  公偶々病魔に犯されるや家臣等大いに驚き芝池に紀州より熊野権現を勧請し又布制神社に神参畑を寄進するも其の平癒祈願遂に効なく長享元年(1487)三月二十三日永眠せらる  遺骸は山布施城の側に武装の儘埋葬され戒名を眞龍寺殿宗忠正功大禅門と云う  公領民に尊敬せられ家臣にも深く親しまれ其後家臣等昇級八龍大権現則ち神として祠を建て祀らる  信仰御加護により知能発育頸より上の病に霊験特に有り  昔は遠方より参詣するもの多く祭日は四月十五日  五月五日でありました



さて、どこまで信憑性があるかはともかく簡単に考察をしたい。
清和天皇の第4皇子貞保親王の後裔とするのは小県郡の滋野氏と同じで、布施氏が望月氏の分かれとするところに起因するものだろう。
ちなみに滋野氏が貞保親王の後裔という確証は無く、むしろ大伴氏の流れと考える説のが一般であるようである。

永享年間村上氏と小笠原氏と衝突の際は村上氏方となり戦闘に参加とは、出典先が定かでないが、「永享記」永享八年(1436)に村上頼清が小笠原政康と更級郡の稲荷山・八幡平で戦い敗れ、布施伊豆守を関東へ発遣し関東公方足利持氏に援軍を要請したことにもつながるものであろう。
篠ノ井の布施氏館跡の案内板に、「確証はないが、布施伊豆守が館の主と考えられる」というから同族として反守護の村上方にあったということだろう。

文明三年(1471)諏訪の神主満実より布施大郷なるをもって二分し兄頼形を高田に弟の直頼公を平林に領主とするの指令あり  晩年子正直若年なるにより暫時有旅城の公の弟直長に家督を譲らる。
篠ノ井の布施氏館跡の案内板には「延徳・明応年間(1489~1500)布施頼久 は、長男頼方を布施氏、次男直頼を平林氏として、平坦部(里布施 )と山間部(山布施 )をそれぞれ領有させた」とある。

ほか詳細な記述があるのは、これらに出典が存在するとからと思われるが、それらの研究はまた後にしたい。

社殿内の絵

社殿内の古い標柱には八龍大権現とある。

社殿横の新しい標柱。


面白いのは社殿の東側斜面の下に腰郭的な平地があることで、上記の案内板には円墳状の地とあり、古墳上に祠が建てられたものかとも思ったが、どうも城跡のようにも見える。
そして、ここから南側一帯には明らかに人工的な土塁状の隆起地形と削平地が存在する。
この場所を城跡としている資料がないかを図書館等できちんと調べていないのだが、研究者がこの場所を把握してなお城跡でないと認定しているのならば、近世の人の手が入った地形ということなのだろう。
ただ、筆者自身が今現在どちらとも判断ができない以上、以下に城跡ではないかと思える状況を残そうと思う。

地形が面白いと思い手持ちのノートに描いた絵だが、無論実測はしていない。
北が上で頂点の楕円形の中の四角が社殿の場所である。南北に長く、東側には小さな沢があり断崖状であり天然の堀といえると思う。
社殿のある楕円形の三方斜面は急であり、その南側には二の郭ともいえる細長い平地があり、下の写真の「布施八郎直頼終焉之地」石塔が立つ。


「布施八郎直頼終焉之地」石塔

腰郭状の平地はここでスロープになり繋がっている。

 堀とも言えないが、余りにも起状が整然としている。


 絵地図下半分にある広い削平地。
人工的な高い土豪に囲まれた、美しい平地だが近世のものなのだろうか。




 平地の南側の土塁は一際大きく、上部も広い。


 平場から西側を見る。

 土塁の東側は急斜面で沢が見える。

土塁上


 最南端の平場。

 最南端の堀切と推測されるもの。この向こうは畑になる。

これらが城跡である場合、最北端の社殿のある楕円形の郭周辺よりも、南中心部の平場が主郭といえそうである。おそらく、この地が布施八郎直頼終焉の地とされるのも、ここに何かしらの謂れなり痕跡があったからこそのものと思われる。
暇をみて資料をあさりたいところである。

さて、布施八郎直頼の事は社殿の由緒におおよそ書いてあったが、その詳細と信憑性及び布施氏や平林氏は別項で取り上げたい。
布施氏



2017、十一月初訪

2018年8月1日水曜日

祢津の市@東御市祢津


中世の市跡が小字町屋の四辻にあったという。
現在は高速道の下になってしまったが、かつては雑木に交じって目通り60㎝ほどの榎の木の大樹があり「市神の森」と呼ばれていたという。
周囲は畑地で、四辻の道路脇には、筆塚や西町の某氏が建立した明和八年(1771)の年号入りの観音像などがあったというが、現在の案内板周辺の石碑らがそれであろうか。

案内板。
高速道路を潜るトンネル南側。
トンネル前の現在の四辻が古いものか分からないが、そうだとしたらトンネル口の左側周辺の土手が「市神の森」があった辺りと思われる。

ここからトンネルを抜け、道路に沿って東北へ向かうと祢津西町に、南西に下ると井高を経て海善寺方面へ。
東西の道は、東は祢津氏初期の居館跡とされる古見立南端を通り出場・新張へ、西は釜村田へ抜ける道路で、古くから祢津下道(推定)として利用されていた交通の要所であったという。(「上田小県誌」)

「市神の森」付近から北西方面の風景。
右奥の山は海野氏の居城ともいわれる矢立城

北側には祢津下の城が真近にあるが、高速道でここからは見えない。

「市神の森」付近の風景。海善寺方面。

現在の市神は西町公民館脇に移されている。
祠そのものは時代的には新しいももらしい。

繊細な彫刻を施された石祠。

西町公民館脇の案内板。

市神は、むかし「市神の森」にあったが、いつの時代にか横町消防庫前に移されたが、道路拡張のため、西町公民館に再度移動したという。
「上田小県誌」では、祢津氏の居館が古見立から宮ノ入へ移ったが、東町の長命寺はもとは奈良原にあったし、大日堂は「市神の森」近くの古大日から移され、日吉神社は古見立にあったものを現在地に移したもので、これはある時代に意図的に移動配置されたことを物語っており、それにつれて市場も移動したものであろうとしている。

大日堂跡。

とりあえず「上田小県誌」から転載失礼。
「北御牧村誌」からも借用失礼します。

近くでは海野の市があるが、中世土豪の所領との関わりが伺われる。
とくに千曲川対岸の島川原の市は祢津・海野・望月各氏の中心地付近に当たり、付近を包括する市が立ったものと推察されている。


2018、7月再訪

縁切り地蔵@東御市島川原


向って真ん中は如意輪観音で、左が縁切り地蔵。右は縁結び地蔵という。
縁切り地蔵には現在でも鋏などが供えてあった。




島川原は、鹿曲川が千曲川に流れ込む東岸に位置し、中世から望月道が東山道に通じるための渡し場が在ったとされ、交通の要所であった。
また島川原は、祢津海野望月各氏の中心地付近に当たる場所であり、ここにどの勢力下にも属さないで付近を包括するような大きな市が立ったと推察されている。
この島川原の市が立った場所に縁切り地蔵があることも、あるいはそんな意味もあったのかもしれない。
市神の存在は確認していないが、付近には市坂などの地名が残るという。
「北御牧村誌」から借用。

千曲川の対岸は海野氏領小田中と祢津氏領桜井の中間付近にあたる。
鹿曲川の対岸には望月氏に関するという政所城があり、となりの布下には望月氏一族の布下氏の居館が在ったとされている。

また、近くには島川原の諏訪神社があり、みごとな黒槐の大木がある。



2018、7月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...