2018年4月17日火曜日
祢津健事神社
砦の址という。
辺りの地形でここだけが台地状であり、砦的な施設があってもおかしくはないし、もとは古墳であったかも知れない。
もとは諏訪社といわれ、現在も御柱祭が行われている。
祢津氏と諏訪社との深いかかわりが伺える。
境内にある歌舞伎舞台。祢津には東町歌舞伎舞台もあり、「祢津の歩き巫女」が起源ともいわれる。
祢津の御姫尊参照。
石段が印象的。
西側。3mほどの台地上にあることがわかる。
祢津健事神社から見た根津下の城。
北側。
北側。
2017冬
2017年9月3日日曜日
岩門神社@上田市
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岩門神社 |
もと諏訪社であると言うのは祭神が建御名方命、八坂刀売命であることから伺える。
因みに八坂刀売命は建御名方神の妃神である。
文化3年(1806)11月の再建以前の由緒、創建月日も不明とのことだが、土豪の氏神や産土神を起源の可能性はある。また隣接する岩門城との関わりが指摘されるので、少なくとも室町後期、海野氏や地頭であった太田氏に関わるなら鎌倉時代にまでは遡れそうである。
神社のすぐ下に茅野家の墓地があり、家紋が「立ち梶の葉」でもあり、諏訪社である岩門神社と関わりがあるのかもしれない。その場合真田時代以降の関わりであるのか、それ以前の関わりであるのか興味があるところである。
茅野氏には諸流あるが、比較的関係ありそうな所では長野県茅野市発祥の茅野氏か。
鎌倉時代から記録のある地名らしい。「千野」とも表記し、「チノ」とも「カヤノ」などともよめるが長野県では「チノ」が主流らしい。
諏訪神党であるので「梶」紋も肯ける。諏訪家の家臣に見え、後に武田家に従っている。武田家滅亡後真田家に従った茅野氏の一流がいたということだろうか。
「守谷文書」の神長官知行目録(信濃史料叢書)の中。
小縣郡
一五貫文 禰津殿
一三貫文 浦野殿
一二貫文 丸子殿
一壹貫文 常田殿
一同 □けこう 岩かと
一十貫文 近年無之 海野殿
一三貫文 是もさらしなか 室賀殿
この岩かとは茅野氏のことか?
宮の坂は岩門城の北の堀の延長線上にあり、神川の河原に落ちている竪堀跡に作られたものであろう。
岩門神社と岩門城はここを境にで接しており、境内も城域、或は関連施設があったのではと推察されている。
岩門城跡参照
岩門城との境にある竪堀周辺には矢竹が生い茂る。
岩門神社鳥居前から岩門城(大日堂)方面を見る。
神社のすぐ下に茅野家の墓地があり、家紋が「立ち梶の葉」でもあり、諏訪社である岩門神社と関わりがあるのかもしれない。その場合真田時代以降の関わりであるのか、それ以前の関わりであるのか興味があるところである。
茅野氏には諸流あるが、比較的関係ありそうな所では長野県茅野市発祥の茅野氏か。
鎌倉時代から記録のある地名らしい。「千野」とも表記し、「チノ」とも「カヤノ」などともよめるが長野県では「チノ」が主流らしい。
諏訪神党であるので「梶」紋も肯ける。諏訪家の家臣に見え、後に武田家に従っている。武田家滅亡後真田家に従った茅野氏の一流がいたということだろうか。
「守谷文書」の神長官知行目録(信濃史料叢書)の中。
小縣郡
一五貫文 禰津殿
一三貫文 浦野殿
一二貫文 丸子殿
一壹貫文 常田殿
一同 □けこう 岩かと
一十貫文 近年無之 海野殿
一三貫文 是もさらしなか 室賀殿
この岩かとは茅野氏のことか?
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宮の坂 |
岩門神社と岩門城はここを境にで接しており、境内も城域、或は関連施設があったのではと推察されている。
岩門城跡参照
岩門神社鳥居前から岩門城(大日堂)方面を見る。
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岩門集落の辻 |
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