2018年12月31日月曜日

弁天山@東御市滋野乙

祢津支城の東隣の尾根で、弁天堂が建つこと、弁天池があることから「弁天山」としたが本当の名は知らない。

山上の東屋には「弁天様公園」とあった。
弁天池。おそらく農地用水用の溜池。

山上の風景。
弁天堂。
弁天堂脇の土塁は古墳跡であろうか。
弁天堂前の平地には祠と石塔が建つ。
なぜかここに太鼓橋。
実は山上には堰が周っている。
右の堰はトンネルとなり弁天池に、左の堰は未確認ながら祢津支城の北の山上を横切る堰からつながっているように見える。
この地域は昔から水争いが絶えなかったという。江戸幕府の調停により、奈良原地籍に枡 場を作り、沢の水を滋野は6分、祢津は4分に分けたことから「六分水」(ろくぶすい)といい、祢津支城の裾野を流れる堰がそれだと思われる。
この山上の堰がいつの時代のものか知らないが、そういった環境に立ち向かった先人達の努力をみれるものである。


さて、この尾根が気になったのは、祢津支城からくっきり見える二条の竪堀状の溝が確認できたからである。

しかし結論からいうと、二条の縦溝は山上の堰の決壊によるものであろうかと思われる。

山上から見た縦溝。

山上から見た南側斜面。

山上の様子。

弁天様公園の入口付近と弁天池。

東側から見上げる。

弁天様公園からは寺ノ浦石器時代住居跡が見える。
その奥の集落は井子集落である。


これらが城砦の類いであるかは判断しかねるが、祢津支城ともども南の原口集落に関わると考えられる。
原口集落には森と竹林を伴うまとまった一画があり、寺社跡か館跡のようにも見える。
字地名など調べてないが、気になる場所である。


祢津支城と弁天山。


2018、12月初訪


祢津支城@東御市滋野乙


新張に開けた扇状地の東側、緩やかな尾根の南端になる。 麓から見える鉄塔の建っている所が主郭であるらしい。

原口集落の北であり、原口山とも城平とも言われるらしいので、原口に祢津氏と関連のある者が居たことが考えられる。
西に滋野神社があり、更に先は祢津氏の本拠地となる。南西には別府集落、別府城があり祢津氏代官である別府氏がいた。更に南方には大石城芝生田城と東漸寺といった、祢津氏に関わる施設があり、東の井子神社は滋野神社から分かれたというので祢津氏の所領であったろう。
小諸城は長享元年(1487)に大井光忠が築城した鍋蓋(なべぶた)城が始まりものといい、後に小諸地方は村上氏の領有ともなっているが、小諸、佐久地域との境界はおそらく深沢川であったと思われるので、祢津支城よりもっと東の深沢川西岸付近にも何かしら祢津氏の施設があった可能性はあるかもしれない。
ともかく南方向一帯に展望がよく、祢津氏所領の東側地域を見張るのに使われたものと思われる。

先端付近の登山口。

緩やかな登山道。
東側斜面には削平地があるが、城跡であるかは分からない。
ただ、その下は平らな畑で細い沢が流れるだけなので、何かしの防備があったであろう。

2の郭付近から南側を振り返る。
2郭と3郭の境に堀があるらしいが、上からだとよく分からない。
東側に少し降りるとそれらしき形跡。
で、右の石の付近が「信濃の山城と館」にある虎口であろうか。

石付近からの3の郭。

3の郭から見た2の郭(左)と主郭(鉄塔)。

2の郭から見た主郭(鉄塔)。

主郭は緩い傾斜地で、主郭の北側と西側には土塁が巻いている。

主郭の東側はいくらかの切崖になる。
主郭西側の土塁跡。

主郭北側の土塁跡。

北側の土塁は竪堀となって両側に落ちるが、東側は堀切を伴って下の畑まで落ちている。
東側の堀切と土塁を下から見る。
二枚目の写真はかなり下からのもの。

西側に落ちる竪堀。
二枚目の写真は西側から祢津支城を写したものだが、竪堀に見えるものがそれであると思われる。

北側から見た北の土塁と奥の主郭。
結構綺麗で東の竪堀土塁とともに最大の見所。

もう少し北にも堀切があるというが、ほとんど分からない。

その北にはせんげが通っていたが、すでに城跡外らしい。



祢津支城からの田中方面への眺め。

東の竪堀の先は畑地である。

東の畑地。穏やかな土地で、主郭が傾斜地であることから小屋掛けされたのはここではとも想像できる。

東の畑地から祢津支城を見上げる。

南に原口集落
中央の森は神社かと思ったが竹林と墓地、畑地だった。まとまった平地でもあり屋敷や寺屋の跡地かもしれない。

東隣の尾根は弁天山
これも砦跡かと思ったが、こんな近距離に必要ないか。

西側麓にはせんげが通っている。
開墾の歴史は調査していないが、館などは堰の要所に築かれることが多く感じるし、堀の役目もあったかもしれない。

左隅の森付近が滋野神社。西方の滋野神社裏の山にも見張りの砦くらいは在りそうであるが未調査。


古代新張牧は望月牧に次ぐ規模で、実はここより北の奈良原一帯が中心地ともいわれている。
その経営者であったか管理者かであった祢津氏は祢津や新張一帯から湯の丸を越えた群馬側の田代方面までを領有したらしい。
新張地域は直轄地とされるので、祢津支城も直轄の城と思われるが築城時期は不明。
永享八年(1436)の、「芦田下野守征伐」で信濃守護小笠原政康に別府城芝生田城を攻撃されたが、近くの大石城ともども記録にない。その時期に存在したのかも、どういった役割を果たしたものかも不明である。



ここでは関係ないが、近くには寺ノ浦石器時代住居跡がある。

2018、12月初訪




足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...