2017年12月24日日曜日

宮嶽山陵神社


宮ノ入祢津氏居館の直上の尾根先で、ここに砦があったという。
清和天皇の第四皇子貞保親王を祀ったと言われ、祢津に居住して延喜2年(902)に死去したとき埋葬した陵墓ともいわれる。
貞保親王がこの地を訪れた折りに目を患ってそれがもとで亡くなったと言われていることから、宮さまを慰めるために火祭りが4月に行われているという。
祢津氏参照。
宮ノ入祢津氏居館参照。
根津下の城(禰津城・根津城・祢津)参照。
根津上の城参照。

登り口近くにある水石は1714年のものと言われている。脇の道を北へ行くと宮ノ入祢津氏居館跡がある。

登り口。この道をそのまま進むと祢津下の城の二重堀切の末端辺りに出る。

斜面には郭状の削平地が。

振り返る。

延々とした石段。

祠。

水石。

365段の石段とどこかにあったが、数えたら322段だった。



登ってきた石段。

意味ありげな石。





2017冬

宮ノ入祢津氏居館


祢津集落の宮入にある。西方に根津下の城、その東尾根先にある宮嶽山陵神社のすぐ麓に当たり、北方には根津上の城がある。
滋野三家の祢津氏居館跡という。
祢津氏の居館跡というのは他にあり、「古見立祢津氏居館(古御館)」がこの場所に移る前の居館という。古御館は古見立集会所の辺で、より新張地区に近い。楢原とともに新張牧が祢津氏の所領であったことからあり得るかもしれない。
祢津氏参照。
根津下の城(禰津城・根津城・祢津)参照。
根津上の城参照。
宮嶽山陵神社参照。

道路左側が居館跡、右手は下の城の尾根。

居館跡北側。裏門の地名が残るという。堀らしき遺構はない。

中央の大きなカヤの木周辺に土塁と段丘が残っている。

北東隅あたり。石のあたりは土塁の名残か。

居館中央を遮る段丘。

祢津氏居館の庭木だったと言われている。

段丘の上段が主殿とも、下段が主殿ともいう。


写真では伝わらないが、かなり立派な巨木。

土塁がよく判る。違いになった虎口状の斜面もいい。

西側の土塁と段差。折れがあるというが竹藪で判らない。


段丘下段。池のようでもある。


2017冬

根津上の城(禰津城・根津城)

根津上の城と根津下の城。

祢津集落、宮ノ入祢津氏居館付近から見た根津上の城。
ピラミッド型の祢津下の城に対し平坦な山頂が印象的な山城である。
滋野三家の祢津氏の城で、祢津下の城の北側の尾根沿いにあり、緊急時には宮嶽山陵神社砦とともに連携したものと思われる。
祢津下の城の案内板に「戌亥の馬場」とある。下の城と上の城を繋ぐ尾根沿いは急斜面に囲まれた丘陵地帯であるが、筆者はこれが「戌亥の馬場」と推察する。
根津下の城(禰津城・根津城・祢津)参照。
宮嶽山陵神社参照。
宮ノ入祢津氏居館参照。
祢津氏参照。

祢津城周辺図。

姫子沢集落の奥からの道路で、祢津下の城の北側を通り途中から林道に入ると近くまで行ける。雑木林をしばらく進むと平な山頂らしき影が見えてくる。

近くと段丘状であるのがわかる。

段丘上の腰郭。荒れているが意外と広く長い。

虎口状の箇所から主郭へ登れる。

主郭。

荒れ放題の主郭。かなり広そうである。

「信濃の山城と館」に石とあるものか。石は他にもあったが中心部には違いなさそう。

主郭の南側周辺。石のある中心部は一段高いのがわかる。

写真で分かりにくいが、主郭の南西斜面の郭。

主郭の東側はさらに荒れ放題。

城域の東側にある竪堀の確認のため、再度腰郭に降りてみる。

写真中央に分かりにくいが竪堀。

再度腰郭。

腰郭から北側斜面をみる。

腰郭の北側に張り出した出丸的な郭。その機能は見当もつかない。

帰りがけに振り返ると山頂の影がひっそりとそこにあった。

2017冬
2018・春写真追加
2018、8月祢津城周辺図追記

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...