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2019年6月12日水曜日

比田井の城山(内城)@佐久市協和比田井

写真中央の山が城山で、裏側は西になるが、屋号「城山」と呼ばれる柳沢氏宅がある。
城山の北東下の水田地帯に「内城」の地名が残るというが写真手前一帯になろうか。
付近には他に、上王城(かみおき)・下王城・袋久保・谷地・蛇山・笹小路・郷主久保・作之城・五反田・女郎田などの地名があるという。
ここから東500mには彦狭島王の御陵という古墳があり、「長野県町村誌」では、故に王城、内裏窪の地名があるといい、按に古昔官舎の地なるべしとある。

彦狭島王云々はともかく、古代の伝承や近くの蓮華寺、春日一帯にある地名などが古い歴史を思わせる。


南方には境沢の屋敷(下城氏屋敷)長林邸跡があり、前者は下城氏(下条氏)の屋敷地とされ、下城氏は京都より来て土着したと伝承がある。
後者は伴野氏代官の長城新兵衛道光の屋敷跡ともされている。




城山南側の集落の道。
南側の集落から見た城山。
屋号「城山」と呼ばれる柳沢氏宅。
一番下の写真は西側から。「信濃の山城と館」にイチョウの古木とかやの木があるとあるが、イチョウの木らしき大木は確認できる。

城山の北側。

城山から田を挟んだ小山も気になるが、墓地になっている。

田の中の道から城山の北側に取り付くことが出来る。
登城口は南の集落の民家の間にもあるがわかりにくい。

南の登城口。
城山城域の中間付近。
季節が悪かったのか雑草がすごい。
南側斜面は佐藤氏墓地と段郭状の畑地。

城域の西側半分は竹林に覆われている。
手は入っているようで、入り込めなくはないがやめておいた。

城域の東側も雑草に覆われていたが、道があったので辿ると謂れ不明の石塔に辿り着いた。

さらに東側は広い平地になっていて奥に祠が見える。

「信濃の山城と館」にある榛名山神社と桑神であろう。
昭和の初め頃までは舞台もあって村芝居も催されたという。

二つの祠の後ろ側には若干の盛土が見られるが、古いものかは分からない。

北側の斜面の一段下に郭状の平地がみられるが、これも城跡であるかはわからない。


史料等を漁っていないので、現状ではこれ以上記すことが出来ないが、後々追記更新したい。



2019、6月初訪

2019年6月10日月曜日

境沢の屋敷(下城氏屋敷)@佐久市春日字境沢

この一帯に勢力のあった下城氏(下条氏)の屋敷地とされている。
「信濃の山城と館」によると、下城氏は、蓮華寺の大檀那で江戸時代には庄屋をつとめるなどしたと言われるが、明治初年に火災に会い望月町の方へ出たと言われる。その時に書状等を失ったというが、家伝では京都より来て土着したと言われ、長林地籍に墓地があり「長林の家」と呼ばれたという。
「長野県町村誌」の「長林邸跡」との関係や、「日本記」の景行天皇五十五年、彦狭島王が春日穴咋邑(あなくひむら)に至りて薨し給うという伝承との関係などが問題になるが、史料等全くなく今のところはっきりしたことは不明。下城氏は江戸期までは下条氏とも言われ、880坪の屋敷があったと伝えているという。

「信濃の山城と館」から丸パクリしてしまったが、資料が無いのでしようがない。
別府山蓮華寺は、平安時代中期治暦3年(1067)に創設されたと寺に伝わる真言宗派の寺院で、中世には十二の塔頭を有したという古刹である。

長林屋敷は、「諏訪符札之古書」文明二年(1470)に春日代官、長城新兵衛道光と見える邸の址といわれる。

彦狭嶋王は豊城命の孫で、景行天皇五十五年(125年)春二月五日、東山道十五国の都督に任じられたが春日の穴咋邑にて病で亡くなった。東国の人民が秘かに屍を盗み上野国に葬った。 翌年、彦狭嶋王の御子・御諸別王が父に替って東国を治めたという。
彦狭島王の春日穴咋邑は、奈良市古市町で猿田彦を祀る穴栗神社の一帯がその伝承地とされるが、旧望月町にも春日地区一帯に比定する考えがある。
また墳墓と伝承されるものは各地に幾つもあるそうだが、ここの近く諏訪王宮神社境内にも伝承のある古墳がある。しかし実際は古墳の方が300年以上も新しいものらしい。

すぐ南側には蓮華寺と別府の地名。北側には比田井の城山や彦狭島王の御陵という古墳。すして東側には長林屋敷、その南に行くと春日本郷の館春日城がある。


下城氏(下条氏)の屋敷地とされている一帯。
現在民家のある833-1番地のところに880坪の屋敷があったと伝えるが、土塁などの痕跡はないという。

西側は段丘状の高台で、その裾を比田井堰が取り巻くようにながれる。
堰は開発所領の生命線で、開発領主の館は用水の要所に置かれることが多いようである。
比田井堰がどこから取り入れられ、どこへ向かっているかの確認はしていないが、この高台を流れていることを考えると、北側の比田井方面へ水を引こうとしていると思われ、比田井の開発領主に関わると考えられるか。
関連は不明だが比田井には内城(比田井の城山)がある。

追記・春日城の西に向反の館(殿様屋敷)がある。比田井堰はここの堀の役目も果たしており、「信濃の山城と館」では、まず比田井堰が出来て堀割をしたとみられ、石の開発と深い関りが在ろうとしている。ここの城主については春日氏の関連が強いと見られているが、既筆のように筆者は伴野氏系春日氏ではと思う。



「望月町誌」では三明・句領など付近の地名から、国衙の存在が想像でき奈良時代以前の歴史も考えられるとしている。
寛正三年(1462)には伴野氏の代官、鷹野氏が、文明二年(1470)には長城新兵衛道光が伴野氏の代官として春日に地にあった。別府は伴野氏が得分権を手にした伴野荘春日郷の最初の開発部分ではなかったかとしている。
そうであるなら、別府にある蓮華寺や境沢の屋敷は国衙の役人のものというより、鎌倉時代初頭以降の伴野氏に関係するものである可能性が高い気がする。

下城氏の京都より来て土着したと言う家伝や、彦狭島王の伝承等はいろいろと想像は出来るがこじつけになりかねないので控える。

北側を見る。
屋敷地自体が高台上であることがわかる。




2019、6月初訪
2019、6月向反の館(殿様屋敷)の件追記


長林屋敷@佐久市春日

「長野県町村誌」に、「諏訪符札之古書」文明二年(1470)春日代官、長城新兵衛道光と見えたる邸の址ならんとする。
「春日温故記」では長城新兵衛を長「林」城新兵衛道光と読んでいるという。
「信濃の山城と館」は、位置の特定が難しいとしながら古図と地名から該当地を推定している。

西側至近には境沢の屋敷があり、蓮華寺と別府の地名、その北の方に比田井の城山や彦狭島王の御陵という古墳。南に行くと春日本郷の館と春日城がある。

細長い丘の北端は墓地となっている。
「信濃の山城と館」ではここではなく、南側の堀切道路までの半分を推定している。

西側から見た長林屋敷推定地。
東側。

「望月町誌」では、古い地名である「別府」は付近に国衙領を想像させ、別府付近は伴野氏の開発に関わるものだろうという。
寛正三年(1462)には伴野氏の代官、鷹野氏が、文明二年(1470)には長城新兵衛道光が伴野氏の代官として春日に地にあった。しかしここの場所と関りがあるのかの確証は無いそうである。
天文十年(1541)武田村上諏訪連合軍が海野氏を攻めるまで、春日には「祢津氏流春日氏」と「小笠原流伴野氏の春日氏」があり、祢津氏流春日氏は本郷春日付近、伴野氏流春日氏は別府付近に共存していたのだという。


2019、6月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...