2020年6月14日日曜日

塚穴古墳@東御市滋野乙片羽

古墳時代後期(6~7世紀)の円墳。
羽子板型横穴式石室を持つ円墳とある。石室に内に棚状の小石室があり、祭壇とする説もあるがよくわかっていないらしい。この地方では小石室のある古墳はこの古墳だけで珍しいものという。




2020、2月初訪

王墳古墳@東御市和曽根

現地案内板には「王墳古墳」とあり「東部町誌」には「王塚古墳」とある。ともに「おおつかこふん」と読むらしい。
古墳時代後期(6~7世紀)の横穴式石室をもつ円墳で、この辺りの横穴式石室をもつ円墳としては規模が大きく、この地方の開拓が進んでいたことを思わせるものであるという。
墳頂には鳥居があり、石室の天井石が露出している。

鳥居。ちょっと読めない。

石室の天井石。



20195月初訪

2020年4月20日月曜日

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。
「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。
一方の「住吉神社」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。

西海野は、江戸時代の街道整備が進められる中、元和2年(1616)に上田藩主真田信之が周辺集落の住民を移住させ成立した「海野新田」が原型という。
寛永2年(1625)に本海野に海野宿が開設され、宿場町に隣接する地域となったが、寛永8年(1631)の洪水により西海野は跡形もなく流されてしまった。
その後、隣接する海野宿と同様に宿場の体裁でまちなみや水路が形成され、今日のような連続したまちなみとして復興した。
そういった経緯のなかで二つの神社が建立されたもののようである。

石段の参道。
鳥居。
境内。
拝殿。
本殿覆屋。
石祠。
石塔。



2018、7月初訪

住吉神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。
「住吉神社」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。
一方の「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。

西海野は、江戸時代の街道整備が進められる中、元和2年(1616)に上田藩主真田信之が周辺集落の住民を移住させ成立した「海野新田」が原型という。
寛永2年(1625)に本海野に海野宿が開設され、宿場町に隣接する地域となったが、寛永8年(1631)の洪水により西海野は跡形もなく流されてしまった。
その後、隣接する海野宿と同様に宿場の体裁でまちなみや水路が形成され、今日のような連続したまちなみとして復興した。
そういった経緯のなかで二つの神社が建立されたもののようである。

参道口の両脇に殿石と姫石。
鳥居。「住吉宮」。
拝殿。
本殿覆屋。
石祠。



2020、4月初訪

2020年4月14日火曜日

願行寺@上田市中央大門町

浄土宗。功徳山願行寺。創建は不詳。
本尊は阿弥陀如来。銅造善光寺如来一光三尊立像は鎌倉時代末期から室町時代初期に製作されたものという。

伝承によると、村人が千曲川太鼓淵の川底で阿弥陀如来像を見つけ、時の領主滋野氏に献上した。後に後裔である海野小太郎が海野郷岩下に御堂を造営し、松誉岌香上人を招き功徳山願行寺を開山。阿弥陀如来像を本尊としたという。
天文十年(1541)武田信虎、村上義清、諏訪頼重の侵攻により当主海野幸義は討死、兵火により堂宇、寺宝、記録などは焼失したが、唯一本尊である阿弥陀如来像は住職により持ち出された。
天正十四年(1586)真田昌幸が上田城を築城した際、山梨県甲府市帰命院の岌譽道山上人を5世に招き城下に中興開山した。
元和七年(1621)真田信之の上田城下町整備により横町の現在地に再建。
元和八年(1622)真田信之の松代移封に従って松代にも願行寺が建てられた。
寛永二年(1625)当時の住職は霊夢の御告げで新たに本尊を迎え、善光寺如来は秘仏となり、十夜仏と呼ばれるようになったという。
江戸時代、上田藩主松平氏の菩提寺であり、境内には忠済、忠固及び松平家子孫の墓がある。
享保三年(1718)「四脚門」再建。
大正十四年(1925)上田丸子電鉄丸子線の「上田東駅」が開設。願行寺の「四脚門」にちなんで周辺を「大門町」と名づけられた。
今の「四脚門」は北を向くが、大門町が開かれる以前は、海野町の突き当りにあって西を向き海野町の方からもよく見え、唐門と呼ばれていたそうである。


願行寺の阿弥陀如来像は藤原摂関家に所縁のあるものとみられ、荘園管理者である海野氏と藤原一門との繋がりを示唆しており、都と結びついた文化が栄えていたと考えられているらしい。
千曲川「太鼓淵」がどこか不明だが、上田市神川地区の岩下には「太鼓岩」がある。
海野小太郎が御堂を造営したという海野郷岩下は東御市本海野の岩下で、「信濃東部自動車学校」の段丘の下の畑の辺り、海野宿のはずれの「阿弥陀堂」(心光寺)の裏手が「願行寺跡」らしい。
天文十年(1541)庇護者である海野氏の没落と兵火による焼失で退転したようである。
一説に第4世東誉上人(日蓮社西応)のころ、寺は真田郷(願行寺屋敷跡あり)に移り、また伊勢山に(願行寺洞あり)も建てたというが書史不明で不審なりともいう。
天正十四年(1586)真田昌幸が海野郷から上田城下の厩裏(末広町)に移したと伝わるのは、焼失後の願行寺が流転して定まらなかった事跡をものがたるものか。
上田城下の厩裏(末広町)は現「上田藩主屋敷跡(上田高校)」付近で、「上田藩主屋敷」の場所は「上田古図」に「常田御屋敷」とあり、「長野県町村誌」によると、ここは常田氏代々の居館で真田昌幸に属し、上田築城の際その外郭を築く時に郭内になったとある。
願行寺は、おそらく郭外に防御施設の一環として構築されたと思われるがよくわからない。
江戸時代に書かれた「信州上田軍記」に、願行寺口の侍大将として池田長門守がある。大剛の者で、手の者どもを下知し敵を突き返し大手の門を堅固に守備したと描かれているが、願行寺は砦として構えたものとしている。
「信州上田軍記」は、慶長五年(1600)の「関ヶ原合戦」に伴う「第二次上田合戦」を描いた物語だが、そういった伝承があったものであろう。

ほかに、
「願行寺ハ旧跡ハ海野新田ニアリテ其後今ノ追手御番所辺へ引移シ、[今按スルニ御番所後石垣ノ裏ニ六地蔵ノ石像一基アリテ松平隼人家庭ノ東追手ノ石垣裏ニ立テリ、霊験著シト云フ、此辺寺跡ト云フモアタレリ]又鷹匠町切通シノ辺トモ云ヘリ、今ノ願行寺ハ寛永ノ度当城築立[最初ノ城ハ一旦破却サセラレタレハ信幸更ニ築城セシナリ]節移ス所カ尋ヌヘシ[墓地ヲ検スルニ寛永以前ノ碑ナシ、或ハアリト雖ドモコレハ後年再造セシモノ也]当今ニ至迄海野新田ヨリ旧寺ノ地子ヲ収ムト云フ、」 (「上田の早苗」成沢寛経(上田市人)著より)


元和七年(1621)真田信之によって上田城下町整備され、願行寺は海野町の東方へ移された。四脚門はそのまま移転されたと伝えられ、当時は城に正対していたらしい。
元和八年(1622)真田信之の松代移封。上田願行寺五世岌誉道山を請じて松代願行寺が開山されているが、上田の願行寺もそのまま寺名を残している。

「松代願行寺」
その由緒書に、天文年中(1532~55)、小県郡海野荘の海野左京太夫幸義が、祖先棟綱の菩提を弔うために開基。神科伊勢山(現上田市)、真田、上田表を経て、元和八年、真田氏に従って松代に移ったという。
「神川御陣の節ハ道山和尚一方の御防ニ加り、力戦仕候由」との記述も残る。徳川の大軍を向こうにまわし、知略をもって勝利した第一次上田合戦に、五世道山和尚が加担し、大いに働いたことが伺われる。
信之没後に出家した近臣の伊木尚正が、庵を構えて主君の菩提を弔っており、伊木尚正が祀った信之影像が寺宝として現存するという。








「願行寺四脚門」

本堂。










2019、4月再訪

塚穴古墳@東御市滋野乙片羽

古墳時代後期(6~7世紀)の円墳。 羽子板型横穴式石室を持つ円墳とある。石室に内に棚状の小石室があり、祭壇とする説もあるがよくわかっていないらしい。この地方では小石室のある古墳はこの古墳だけで珍しいものという。 2020、2月初訪