2019年12月12日木曜日

大神社@埴科郡坂城町横町

祭神は天照大神・豊受大神。
縁起等不詳。
もともとここにあったか分からないが、高市神があることから市や縁日との関係がうかがえるか。
心光寺参道の近くにあり、心光寺は8月に縁日「おかんのんさん」がある。
また江戸時代から坂城宿は栄え、近代まで横町、立町、田町には遊所があった背景が考えられる。

大神社。

境内社。

高市神。

西宮神社。



2019、12月初訪

2019年12月11日水曜日

修善寺跡@埴科郡坂城町御所沢

満泉寺のある「村上氏居館」と、御所沢にあった「満泉寺」は、天文二十二年(1553)八月に葛尾城が落城し村上義清が越後国へ落ちたとき共に焼失した。
天正十年❨1582❩「本能寺の変」で森長可が信濃を去ると、上杉氏が北信濃を領有。山浦景国(村上国清)は海津城主となり父義清時代の旧領を回復。そのとき居館跡に満泉寺を移設再建したという。

満泉寺は初め「修善寺」といった。
御所沢の修善寺跡付近には、「塔の平」、「シャガ❨志賀❩」の地名があって、「シャガ」は修善寺があったとある所で、「塔の平」には村上顕国の墓❨「村上顕国の碑」❩と村上関係家臣の墓という十基の墓石があり、村上氏の霊廟があったという。

「名将村上義清」❨水出熊雄❩によると、御所沢の修善寺跡は、もとは琴平山の奥の山上、「修善寺」から訛った言葉という「ステッチ」と呼ばれる地域から瓦の破片風のものや土器片、焼け土の塊のようなものが収集されており、寺があって焼けたと推測され、後に山麓の修善寺跡に移ったのではとし、修善寺より289年前の674年に「坂城神社」が創建されていることから、「村誌」の応和三年❨963❩、より早い創建である可能性が高く、竹鼻家系図などから15年以前は遡るのではと考察している。


また同書では、平安末期の応和三年❨963❩創建は、村上顕清(源顕清)が寛治八年(1094)(嘉保元年)に村上郷へ配流(「尊卑分脈」)(異説あり)された年の131年前になるとし、「泉徳寺文書」(義清公御本尊縁起)に「天徳四年(960)の秋、村上天皇の第四皇子(為平新王)が当国の国司となって坂城に居られ…やがてお城の近くにお堂を建てられた」旨があり、「御所沢」の「御所」と「為平新王」の関係が注目され、「天徳四年(960)…やがてお城の近くにお堂を建てられた」の「…やがて」は、修善寺創建の応和三年❨963❩に対応するとも考察している。

坂城小学校校庭のところにあったという、「込山廃寺」が同じく平安時代とされ至近であることと、近くにあったろう為平新王のお城が気になる。


筆者は確認していないが、「更埴人名辞書」に、養和三年(1183)四月、明国は坂城御所沢に修善寺を開基とあり、村上明国の中興開基が窺え、同書に、明国は屋代に居るとも、更級郡坂城に居るともし、「屋代記」に明国坂城を知行す。「市川文書」に明国及びその子頼時坂城住とあると「名将村上義清」にはある。

しかし鎌倉期おそらく坂木郷には薩摩氏があって、建武二年(1335)に村上信貞が市河氏と坂城の薩摩氏を攻めている(「市河文書」)し、村上氏が坂城に移ったのはそれ以後、「更級郡誌」等では元中年間❨1384~1391❩以後であろうとされている。
因みに、御所沢には北条党の薩摩氏の居館跡と伝わる「伝薩摩氏居館跡」がある。薩摩氏と修善寺との関係もあったものと思われる。


永正元年❨1504❩、村上顕国志願に因って天台宗を曹洞宗に改宗、上州甘楽郡長楽寺三世の宝室見尊禅寺を請じて中興開山とす。❨「村誌」❩
村上顕国により改宗し禅宗満泉寺を中興開基(更埴人名辞書)とも伝わる。

義清が父顕国の法号満泉院殿にちなんで村上山満泉寺と改めた。❨「村誌」❩
天文二十二年(1553)義清の越後落ちに伴い焼失。
天正十一年❨1583❩、義清の子国清❨景国❩によって現在地、村上氏居館跡に再興した。

以上が御所沢にあった頃の「満泉寺」、すなわち「修善寺」の沿革になろうか。




2019、12月初訪

満泉寺@埴科郡坂城町大字坂城

満泉寺は村上氏の居館跡に建てられた寺で、元は御所沢にあり、古くは修善寺といった。
現満泉寺のあるところは館跡の本郭にあたり、南北150m、東西170mに及ぶ回字形に堀を巡らしていたとされる。
館跡については村上氏館跡で。

村上山と号し、本尊は釈迦如来、曹洞宗上野国甘楽郡西之牧村長楽寺末寺であった。
寺伝では、応和三年❨963❩、天台僧延昌により御所沢に創建され、初め修善寺といい、後村上氏代々の菩提寺となった。
修善寺は永正元年❨1504❩、村上顕国の志願により曹洞宗に改宗、上州長楽寺三世の宝室見尊禅寺を請じて中興開山となし、顕国の法号満泉院殿にちなんで村上山満泉寺と改めた。天文二十二年❨1553❩、武田信玄の侵攻による葛城落城の際兵火にかかり焼失した。天正十年❨1582❩、上杉氏が川中島四郡を領した時、義清の子国清❨景国❩は上杉氏の命により松代海津城将となり、翌十一年❨1583❩、坂木に帰り、村上氏累代の墓所御所沢の満泉寺の荒廃を見て、先祖の冥福を祈って村上氏居館跡、木の下の現在地に寺域を移し緒堂を再興した。
本尊の石造釈迦如来座像は、もと修善寺の本尊で鎌倉末期の様式をもつものという。
刈屋原の泉徳寺、小県秋和の長昌寺は満泉寺の末寺として建立されたという。(「坂城町誌」)

門柱と「村上氏の居館跡」の石碑。

直角に折れた参道と石碑たち。


山門。

鐘楼。

本堂。


現満泉寺のある「村上氏居館」と、御所沢にあった「満泉寺」は、天文二十二年(1553)八月に葛尾城が落城し村上義清が越後国へ落ちたとき共に焼失した。
天正十年❨1582❩「本能寺の変」で森長可が信濃を去ると、上杉氏が北信濃を領有。山浦景国(村上国清)は海津城主となり父義清時代の旧領を回復。そのとき居館跡に満泉寺を移設再建したという。

御所沢にあった「満泉寺」は初め「修善寺」といった。
御所沢の修善寺跡付近には、「塔の平」、「シャガ❨志賀❩」の地名があって、「シャガ」は修善寺があったとある所で、「塔の平」には村上顕国の墓❨「村上顕国の碑」❩と村上関係家臣の墓という十基の墓石があり、村上氏の霊廟があったという。❨「名将村上義清」❨水出熊雄❩❩

永正元年❨1504❩、村上顕国志願に因って天台宗を曹洞宗に改宗、上州甘楽郡長楽寺三世の宝室見尊禅寺を請じて中興開山とす。❨「村誌」❩
村上顕国により改宗し禅宗満泉寺を中興開基(更埴人名辞書)とも伝わる。

義清が父顕国の法号満泉院殿にちなんで村上山満泉寺と改めた。❨「村誌」❩

天文二十二年(1553)義清の越後落ちに伴い焼失。
天正十一年❨1583❩、義清の子国清❨景国❩によって現在地、村上氏居館跡に再興した。





2019、10月初訪

心光寺@埴科郡坂城町大字横町

寺伝によると、正長元年❨1428❩の創建とされ、本尊は阿弥陀如来、京都知恩院末派である。
慶長五年❨1600❩火災によって焼失したが、同十一年❨1606❩僧源沢が中興開山となった。
天明四年❨1784❩再度焼失、寛政二年❨1790❩再建して現在に至る。❨「坂城町誌」❩


京都知恩院末派なので浄土宗。
正長元年の創建というので、村上氏にかかわる者による開基と思われるが不明。
火災にあった慶長五年は関ヶ原の戦いのあった年。西軍についた真田氏にかかわるものだろうか。

山門。

観音堂。

本堂。

本堂の鐘。
本堂横。

本堂裏の墓地には、江戸時代末期に平沢の山野を開墾し、産業振興に貢献した稲玉徳兵衛(1822-1872)の墓と石碑がある。
名は昌言。字は子聞。立町油屋に生まれ、村の年寄役を勤め、多額の私財を投じ多くの苦労と反対にあいながらも開墾し村民の生活向上に寄与した。
平沢山に昌言神社があるが、稲玉徳兵衛昌言に感謝した村民が文久年中小祠を建立して、稲玉徳兵衛昌言を生きながら神として祀ったものという。
また、稲玉家氏神というのが御所沢琴平山の秋葉社のところにある。




2019、12月初訪

大神社@埴科郡坂城町横町

祭神は天照大神・豊受大神。 縁起等不詳。 もともとここにあったか分からないが、高市神があることから市や縁日との関係がうかがえるか。 心光寺 参道の近くにあり、心光寺は8月に縁日「おかんのんさん」がある。 また江戸時代から坂城宿は栄え、近代まで横町、立町、田町...