2018年6月30日土曜日

岩門大日堂@上田市岩門

大日堂跡と国分寺道跡

岩門城跡域にある。

この城跡を縦に突き抜ける国分寺道は、祢津街道から国分寺に詣でる古道であったという。


城跡内は「活文禅師遺跡三号岩門大日堂跡」として市指定史跡となっている。
幕末に活文禅師が隠棲し寺子屋を開いた場所で、佐久間象山が松代から通って教えを受けたことで知られる。
活文禅師は松代に生まれ、10歳で和田の信定寺で得度、のち長崎に遊学し対馬まで出かけ世界の大勢に目を向けた。45 歳で上青木の竜洞院の住職となったが間も無く辞し、51 歳で岩門に隠棲した(文政八年(1825))。
門弟は千余人といわれ、54歳で常田の毘沙門堂に移り、70歳で生涯を閉じた。
教えを受けた多くの子弟の中には高井鴻山や山寺常山がおり、幕末に活躍した多くの人材がいる。
当時の大きさは建物の構造から見て約70平米(21 坪)くらいと推定されている。庭には象山駒つなぎの松(2代目)がある。

象山駒つなぎの松

文政十一年(1828)活文禅師に弟子入りした象山は、この時十七歳の青年の志士で、松代から馬で地蔵峠を越え訪れていたという。

堂内。当時の大日堂はもっと小さかったと推測されている。

岩門集落


2017、春

田中の仁王尊@東御市

薬師堂の謂れは知らないが、堂の前に石造の仁王像がある。

赤い彩色が施され、右側の像の高さは210㎝、左側の像の高さは187㎝と意外に大きい。

江戸時代に最強と謳われた力士、雷電為衛門は東御市が出身地で大石には雷電生家と墓が現存している。
左の吽形像は明和三年(1766)に、雷電の母親が“強い子が生まれるようにと、願をかけたものという謂れがある。

右は阿形像は右は寛政八年(1796)の阿像は雷電が大関に昇進したときに母親が奉納したという謂れがある。
この阿形像は、はじめ境内東方の参道北に吽形像と相対して建立されていたが、昭和四十四年に仁王堂前へ対になるように移転されたという。



おそらく、寛保2年(1742年)「戌の満水」の供養碑。

薬師堂の横の祠。

うん。



すぐ近く
近く大屋にも「大屋の仁王尊」がある。


2018、5月初訪

小田中の善福寺跡@東御市加沢

東御市加沢の西南、所沢川の西岸一帯が、かつて善福寺といわれる中世寺院が存在したと伝承される場所である。

「東部町誌」では、善福寺に関する史料を二点あげている。
一つは、青木村村松の宝篋印塔の銘に「善福寺に寄進し奉る田畠の事、右寄進の田地は、浦野荘内村松藤次郎入道在家三分(の)二、田三畝、寄進すること如件、貞治四年(1365)十二月二十日、沙弥朝阿」と記され、浦野荘内に住む法名朝阿という人が田などを善福寺に寄進したことを書いてある。本来紙に書く寄進状を宝篋印塔の基檀に陰刻したのは、多分この塔が沙弥朝阿の供養塔であって、生前の善福寺に対する信仰の深さと業績を記したものであろうという。
善福寺は祢津氏所領の祢津小田中にあったこの善福寺とおもわれ、これは浦野荘の代官が祢津氏一族の浦野氏であることなどから、その中にある村松郷が祢津氏所領に関わる可能性を示唆している。

二つ目は、群馬県の「下屋文書」(永享九年(1437)丁巳十一月八日)に、二所へ(普通箱根権現と伊豆権現をさすという)参詣する人たちを引率してお参りをし、宿の世話をする先達職の権利争いが、祢津善福寺の大覚坊と下屋淡路の間でおこり、下屋淡路と同族の下屋伊勢が得分をあずかったとあるという。
以上から善福寺は南北朝期から室町中期までは存在し、坊も二、三付属していたこととみられ、宗派は不明だが時宗の寺ではなかったかと想定もできそうだとある。

小笠原政康が小県に侵入し芝生田別府の両城を落したのは永享八年(1436)。
村上氏滋野氏が地域支配をめぐって抗争した海野大乱が応仁二年(1468)。
村上氏が佐久郡の大井政則を下したのが文明一六年(1484)。
武田信虎が、村上、諏訪らと連合し滋野三家を攻めた海野平合戦が天文十年(1541)。
武田信玄と村上義清が戦った上田原合戦が天文十七年(1548)。

どうやら村上氏が小県や佐久に侵入した時期以降に戦火にかかった可能性がありそうである。

長久寺
東御市常田の「長久寺」の縁起や口伝に、長久寺の前身である善福寺の創建は長久二年(1040)と言われ常田氏の祈願所であったという。 戦国時代に武田、村上の合戦のとき兵火を受け焼失したと言われる。その後、常田氏は羽黒に堂を再建し、善福寺創建の年号長久をとって長久寺と改めたという。
これに照らすと、武田信玄が信虎を追放した混乱時を攻めた小笠原と諏訪ら信濃勢が撃退され、信玄の信濃侵攻が始まった以降の廃寺ということになる。
また、長久二年(1040)に常田氏が祈願所として善福寺を創建したようにとれるが、後で述べるように大門は東側の小田中の方をむいており常田のある北を向いてはいない。常田氏は海野一族から分かれた支族だが、小田中氏と常田氏は関係の深い氏族ということなのかもしれない。
このあたり筆者の認識あまいので調べて改稿したい。

小田中の西に善福寺という地字が三筆あり相当に大きな寺であったことが伺える。
大門崎が大門先だとすると善福寺の大門は東側の小田中の方をむいていたことになるという。
未見だが、石垣に囲まれた屋敷跡、小田中氏の住居跡らしきところもあるという。

小田中善福寺跡
現在の小字小田中周辺には社宮前・若宮・前田・樋の口・大長田・善福寺・大門崎など、寺社や水田を示す地字がつながっており、祢津氏の代官支配地、小田中祢津はここという。
小田中氏の名は「大塔物語」(1400)に根津越後守遠光を大将とする軍の中に、桜井・別府・実田・横尾・曲尾氏らとともに小田中が見える。
小田中祢津の地名があらわれるのは「御符札之古書」享徳元年(1452)の「大(小)田中祢津、代官金屋」が初出で、金屋氏は一度頭役を勤めただけで、そのあと30年近く不明。文明年代以後、代官出沢(浦か)修理亮直宗や岡村氏が現れるという。
金屋氏が信濃の中世資料にあらわれるのは、このときだけで、信濃国内に金屋氏の出自を求めるのは難しいという(「東部町誌」)。

善福寺地籍が複数あるのは、近世の旧田中村と旧加沢村の境界による為で、(5)(6)(3)合わせた一帯が寺領であったのだろう。
東側を流れる所沢川を東の境界としているようだが、その方向に大門崎があり、所沢川を挟んですぐ目の前に地字小田中があるのは


新張・奈良原から流れる所沢川。
所沢川の下流西岸一帯(写真左方向)に善福寺が在ったと推測される場所である。

(3)、(4)、(6)の境目付近。
写真左手は線路を挟んで千曲川に達するまで畑地であり、石積遺構や五輪塔が見つかっているという。

(4)の大門崎。五輪塔が見つかっている付近。
関係ないが奥の山は外山城。


寛保2年(1742)8月戌の満水で流されたものを集めたものともいう。
そうであるならば、(3)の段丘上から流されたものか。(3)の善福寺からは、たくさんの五輪塔が発掘されており、その一部が所沢川などの氾濫によって下流に流されたものと考えられる。
付近で他にも五輪塔が見つかった場所があるかも知れないが、下調べ不足で不明。
石積遺構も素人には近世のものとの判別が不能であり次回に譲ろうとおもう。

(4)の大門崎から小田中方面を見る。
地字善福寺の東側に大門崎(先)があることから、小田中方面を向いていることになり、その方向の権力者との関連が推察される。小田中氏の可能性が高い。


信濃鉄道の線路の南側も、寺に関わるとされる地字、善福寺や京ヶ崎がある。
今回は線路の南側は歩いていない。


(4)の大門崎からみた(3)の善福寺は段丘上となる。

(3)の善福寺。
たくさんの五輪塔が綺麗に並べてあり、発掘されたものという。
ちなみに、南側は竹村家の一族墓地で家紋は抱き梶の葉。

(3)の善福寺。

史料に照らしてはいないが、おそらく「東部町誌」でいう(5)の善福寺が田中善福寺遺跡とされる所で、(3)の善福寺は加沢善福寺遺跡とされる所とおもう。
写真は(5)の善福寺北方の一段高い段丘上で、(3)との境目にも近い所になる。
周囲より盛り上がった畑地が、遠目でも異質な印象をうけ、かつて(5)の北方に存在したという古墳とはここではないかと思われる。

(3)の善福寺と所沢川。


善福寺付近の風景。


2018、6月初訪

2018年6月27日水曜日

櫻井神社@東御市滋野乙桜井


祭神は建御名方命と事代主命の二神。
はじめ「諏訪神の社」と言ったが、明治になって「櫻井神社」と変えたという。
明治十七年に炎上したが、西にある稲荷社とともに明治二十年に再建されたもので、本殿の彫刻は宮大工尾沼勝次郎源直則の作という。
「神社本殿の彫刻は太田道灌の句ではないだろうか」といわれている。
例祭は十月一日で、生島足島神社の神官が勤めるという。(「桜井の発見」秋山隆明より)。

創建年も謂れもわからないが、祭神からも諏訪系の神社であることはわかる。
元禄十六年(1705)神官に根津権頭の記録があるというので、それ以前には存在していたのだろう。
鎌倉時代「吾妻鏡」に1206年、三代将軍源実朝の前で、モズで小鳥を捕ってみせた信濃の武士、鷹匠桜井五郎がいるが、桜井氏は鷹狩の故実家である祢津氏に関わる氏族とも思われ、この辺りが祢津氏領であることからも関連性が推測される。
しかし、佐久にも桜井はあり、東御市の桜井には屋敷跡を推測できる地字はみつかっていない。
「桜井の発見」に、もとは桜井村は塚穴あたりにあったとある。その近くには上屋久保などの小字もある。ほかでは、大庭脇・羽場・蔵ノ脇が屋敷跡を推測するに気にかかる所か。

桜井郷としては「御符札之古書」に長禄元年(1457)桜井宗郭、応仁元年(1467)桜井入道沙弥道清の名がみえるという。
この桜井氏は祢津氏の代官であろう。

櫻井神社の場所は宮地籍になるが、そのすぐ西南は前田地籍で「かじむら」というらしいが、緩い傾斜地を平地にするための高い石積や五輪塔郡がある。
そのさらに西南は羽毛田地籍で、「ここに羽毛田民部正という豪族が住んでいて、住居があったという。この人物は桜井側の塚穴遺跡と並ぶ古い時代の人物といわれるが、古い書物には今のところ見つかっていない(「桜井の発見」)」という。
塚穴遺跡がいつ頃のものか知らないので、羽毛田民部正という豪族がいつ頃の時代の人かわからないが、羽毛田姓は日本姓氏語源辞典を見ると長野県佐久市や上田市に多く。佐久市鳴瀬が本拠という。佐久市塩名田の小字に羽毛田あり。という。

羽毛田側、羽毛田地籍の西には宝蔵坊地籍があり宝蔵坊の石垣が残っているという。
桜井側にも蔵の脇や塔の前や寺山の地籍があるという。


本殿の三面に彫刻があるということだが、みえない…東面は「羅生門」の鬼退治、北面は「夫婦協力」、西面は「太田道灌の山吹の図」という。

わずかに…いや、南面だからやはり彫刻は見えない。

パネルがある。
太田道灌のの句「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の場面。
若き日の太田道灌が蓑を借りるべくある小屋に入ったところ、若い女が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので、道灌は怒って帰宅した。後に山吹には「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の意が託されていたのだと教えられ無学を恥じたという有名な話が『常山紀談』に載るという。

櫻井神社境内北側。
境内社は、字天神から天神宮。字東村から白山社。字小山から富士浅間社。字根岸から山ノ神社。字野地から厳島社が大正十五年にそれぞれから集められたものという。

西沢川をまたぐ宮前橋から北を見たところ。
奥の森が桜井神社。右側が天神地籍であろう。
おそらく祢津道とは別に新張へ向かう街道で、桜井集落の北には大石集落があり、大石城跡がある。さらに北は別府で別府城。そこはもはや新張で西に向かうと祢津である。
南の千曲川対岸は布下であるが、西の島川原には中世の市があり、渡しがあったろう。

西沢川。


五輪塔の多くある前田地籍は「かじむら」というという。


この辺りも前田になろうか、五輪塔が散在する。
この西が字羽毛田の地籍になろう。


2018、6月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...