2018年5月31日木曜日

長命寺@東御市祢津

長命寺本堂
山号は智光山。東町の宮川、住時の通称金井小路の奥にある真言宗の寺である。
現在の長命寺は、元禄十二年(1699)当時祢津の領主松平氏が復興を発願して建てた江戸時代のものという。
寺伝では、天延三年(975)に尊誉が開山となって創建されたという。
尊誉は永祚元年(989)に示寂している。
現在でも本堂のわきに護摩堂が建ち不動明王が安置され護摩の火がたかれ、古くはこの寺に真海坊・正行坊・道正坊・道高坊・大日坊・三界坊・天智坊・小林坊・真如院・浄正院など十二坊の坊や院が並び建っていたという。
現在長命寺の東方山ろくに建つ大日堂は、もと地字古大日にあった大日如来を延宝七年(1679)に今の地に移したものという。
祢津氏は平安期からの古族であり、当然密教系の仏教を導入していたろうし、長命寺は真言の古寺であったとする伝承が残っていること、大日如来から不動明王とつらなる修験の秘法が受け継がれ今日も護摩堂をもち、かつては修験者や僧がいたと思われる坊や院が存在したことなどから、長命寺の起こりが古いことがわかる。
なお、武田信玄が善光寺仏を甲州に移したとき、一ときこの寺に預けられたことがあったことでも知られている。(「東部町誌」より)

この参道の西には通称金井小路が並列している。

山門
智光山三光院長命寺。
本尊は延命地蔵菩薩 脇立 十一面観音・愛染明王
寺伝では創立当時(天延三年(975))は新張牧奈良原の聖地にあり、密教の修行道場として栄えた、鎌倉時代(1185頃 - 1333)の初期に現在地に移転し、寺運愈々栄えて山下に塔頭として、真海坊・正行坊・道正坊・道高坊・大日坊・三海坊・元智坊・浄正院・真如院・小林院等十二坊を有する大伽藍であったという

奈良原には「古寺跡」「奈良原京跡」等の地名があるといい、「長野県町村誌」に「東西五十間、南北百間、石畳残礎(中略)住古大寺の遺跡なるべきも、其寺号伝われず、今考うべからず。」とある。寺伝を信じるならそのあたりか
「上田小県誌」に「馬と関わりの深い傍陽の天台宗実相院、芝生田の天台宗東漸寺の持ちである深沢観音の例と同じように、牧と密教寺院の結びつきも考えられる。…」とある。

祢津氏の初見は保元の乱(1156)だが、祖とされる大伴氏から祢津氏を名乗った時期は不明である。

また新張牧奈良原は滋野氏の祖とする楢原造東人の先祖の地とする説もあり。

『新撰姓氏録』によれば、紀伊国造の流れをくむ紀氏と同族で、天道根命の後裔とされ、旧姓は楢原造、次いで伊蘇志臣。同時に、天道根命は神魂神の5世の孫で、伊蘇氏(伊蘇志)・楢原氏・滋野氏の祖と伝わる。
天平勝宝2年(750)に駿河守として駿河国へ赴任した一族の楢原東人が黄金を朝廷に献上した功で孝謙天皇から伊蘇志臣(勤臣とも)を賜姓し、延暦17年(798)に伊蘇志家訳が滋野宿祢と賜姓されて以後、宿祢姓の滋野氏となり、さらに弘仁14年(823)には家訳とその子の貞主が滋野朝臣姓を賜っている。(Wikipedia)
やがて滋野一族が信濃の国司として信濃に下向し、信濃滋野氏の祖となるのだが、大伴氏の子孫である祢津・海野・望月がこれに結び付き滋野姓を名乗ったというのが一般的な大筋だろうか。

「日本霊異記」に宝亀4年(773)のこととして信濃国小県郡跡目里に住した他田舎人蝦夷の逸話が、宝亀5年(774 )のこととして信濃国小県郡嬢里里に居住した大伴連忍勝の話しがあり、大伴氏は本海野辺りに氏寺があるとある。
他田氏は現浦里から青木にかけての豪族で古代信濃国造の裔であろう(一説に他田氏の祖は大伴氏とも)。

新張牧奈良原の長命寺はこれらのうち誰に関わる開基であろう。

長命寺山門前の道。
奥の山には大日堂や百体観音堂がある。かつて坊や院が並び建っていたのはこれらの山域であろう。
長命寺HPに「本尊延命地蔵菩薩は室町時代の御作で、戦国時代武田信玄信州攻入りのおり、当本尊に戦勝祈願をなすと武田記にある。」とある。
また、天文中年(1532~54)長命寺堂坊兵火にあい小林院のみ残り、大日堂も元は「古大日」地籍にあり、やはり兵火で焼失(天文・永禄年間1532~1569)、延宝7年(1679)に長命寺別当「小林院勧化沙門清尊」の発願により現在の地に移したという。
武田信玄が善光寺仏を甲州に移したとき「祢津村に一時安置した」という記録(1555・7月~1558・9月)が残っているというが、「東部町誌」にあるように長命寺に預けられたとみるのが妥当であろうか。

長命寺東側の道。大日堂へと通じている。
右の細いせんげが小河川だろうか。
「信濃の山城と館」には「長命寺館」とあり、この川による高台が館を置く好条件としている。
同書では、「ここに館があったかについては全くの不明」としながらも「上田小県誌」から「…長命寺の位置も城郭の跡ではないかと推測される形状にあるが、今の所確実な裏付けがない。」を引用して考察を加えている。
長命寺は天延三年(975)新張の奈良原に創建され、鎌倉時代(1185頃 - 1333)の初期に現在地に移転したのであれば、それまでは豪族の屋敷地であったのかもしれない。

山門を入って右手の浮島。祠共々に謂れはわからない。
護摩堂は確認していない。



 金井小路と呼ばれる路地。
諏訪社に関わるとする金井氏に関係したものといわれる。
領主祢津氏は諏訪神氏であるが、長命寺門前近くに金井小路があるのは、諏訪社の祭祀とも関係の深い時期があったのかも知れない。


2018、5月初訪

定津院@東御市祢津

この寺には「信州臨川山定津院年表」という旧記があり開創は明白という。
これによると開創は、開基が祢津上総輔信貞、開山が拈笑宗英、宗派は禅宗曹洞派で、宝徳元年(1449)のことであったとわかる。

鎌倉時代から禅宗の寺は多くあったが、それらは栄西の教派に属する臨済宗であり、道元系・永平寺系の曹洞宗は信濃では室町初期に一寺が建立され、室町中期以降次第に増加し戦国期に爆発的に盛行したという。
信濃の曹洞禅寺の開創は古い順に、応永十一年(1404)大町の霊松寺(仁科氏)、宝徳元年(1449)祢津の定津院(祢津氏)、文明十五年(1483)岩村田・の臨済からの改宗(大井氏)で、竜雲寺の天英祥貞和尚の力により、佐久の正眼院、水内の興善寺(牧の島)、高井の興国寺なども開き曹洞宗がひろがったという。
祢津信貞は東信濃における曹洞宗の先駆けであった。(以上「東部町誌」より)

拈笑宗英禅師は曹洞宗の拈笑派の祖である。最勝院(静岡県伊豆市宮上)の吾寶禅師に師事し、雲岫 、南極、模菴、洲菴と共に五哲に数えられ、最勝院の2世を勤め、文安4年(1447)には武田家の招きにより甲斐に東林院(山梨県甲州市勝沼町小佐手)を開山するなどしている。

四世海秀玄岱禅師の天文十年(1541)に「定津院の諸堂を焼失した」とあり、「東部町誌」では武田・諏訪・村上連合の海野攻めのためだろうとある。
七世年室宗長禅師は定津院に来る前、天文二十二年(1553)に丸子町腰越の全芳院を開いている。
天正十二年(1484)、祢津昌綱と欣隆禅師の記述がある。(「東部町誌」より抜粋)

安永二年(1773)に建立されたという山門 。






定津院の裏山の墓地には祢津氏歴代の墓がある。
宝篋印塔や五輪塔があるが、室町末期から戦国期のものが多いという。

開基が祢津上総輔信貞、宝徳元年(1449)のことであったというが、祢津氏は大塔合戦(1400)や南北朝時代はおろか、平安期の保元の乱・平治の乱(1156・1160)、源平合戦(治承・寿永の乱1180年ー1185))、承久の乱(1221)にも名を残す氏族である。
平安期は兎も角、鎌倉期のそれらの墓なり供養塔なりはどこかにあるのだろうか。


城郭を思わせるような門前の参道。実に立派である。

また、岩井堂にある御姫尊は別院であるという。


2018、5月再訪

2018年5月30日水曜日

矢島城@上田市常磐城

北林城・北林庄司城・矢島屋敷ともいわれる。
在地土豪であった北林氏を追放した神氏矢島氏の城という。

「…建武二年(1335)に神氏一族の矢島氏が諏訪から北林郷へ移り、北林城へ居城した。在地土豪北林氏を川中島方面へ追放して、以後当地方を支配して住んだ…」
「応永7年(1400)の『大塔物語』等により、応永年間(1394-1428)から永禄年間(1558-1570)にかけて、小県郡に矢島氏が存在したことはほぼ確かで、同氏の城と考えられている。」
また、「かつて、この「矢島城」と「矢島屋敷」は同一視されていたが、「惣名北林絵図」によって「北林城(矢島城)」の他に「矢島屋敷」・「門脇」・「堀の内」があることが分かったという。
その近くには下小路・南小路・まん所などの地名もあり、中世頃に開発領主の館があったことが伺える。」(「信濃の山城と館」より抜載)という。

これらが北林氏・矢島氏とどう関わっているかは、その時代での変動もあろうと思う。
また北の尾根上にあるという「眉間の城」、目近の「牛伏城」・「荒城」、が、これらにどう関わるかも気になるところである。

北の道路から。二条の堀。北側道路脇の一本は埋められて東側斜面に竪堀のみ残る。

 見事に残った堀。左手(南側)には土塁が残る。

 堀の東側は竪堀となり虚空蔵沢へ落ちる。

 土塁の石積。
土塁。
 土塁上から。

 土塁上の古そうな五輪塔。

 二条の堀は西で南に折れ曲がり台地から斜面を下り落ちている。
現在は段畑となっている。

 土塁西隅にある稲荷社。

 土塁からみた(1)の曲輪部。

 (2)から見た(1)との段差の虎口。

 最南端部。

 最南端部斜面の曲輪。

 南斜面の曲輪。祠がみえた。
この辺りが南からの大手入口かと思われるがよく判らなかった。

 東側斜面の曲輪。

 (2)の曲輪。一段高く(1)の曲輪がある。

 「信濃の山城と館」の西隅に一部ある土塁。
延長線上の西側にも土塁があったものか。

 西隅の土塁から見た西の竪堀。


矢島城東側は虚空蔵沢の深い谷である。
写真は谷の反対側からのもの。
 道路を通す為に造られたものか。
コンクリートで無いのがよい。

滝。虚空蔵沢は滝沢ともいうようだ。
矢島城から見た沢の対岸、「牛伏城」の登山口には「虚空蔵堂」がある。「曽我物語」の虎御前に関わり、建久年間(鎌倉時代前期)眉間林に「虎立山祐成寺」が建てられたと伝承され、中央北にある「呈蓮寺」の前身の寺とされる。
「虚空蔵堂」と「祐成寺」が北林氏と矢島氏のどちらに関わるかは不明だが、この上平からは8世紀前半以前と思われる布目瓦が発掘されているので、北林氏かもっとそれ以前に在った豪族との関わりが考えられる。
矢島城の別名「北林庄司城」の庄司とは荘園の役人で荘官のことである。氏寺をもった古い氏族の存在も考えられる。

矢島城

2018、5月
2020、3月一部写真入替および追記

荒城@上田市常磐城

中央より左の尾根先が牛伏城と荒城のある場所だが、後に写真は貼りかえたい。

築城年月及び城主は不明。「長野県町村誌」に「…往古戦争の時の物見ならんか。」、「小県郡誌」に「…所伝なし。或は村上氏連珠砦の一にして、牛伏城と此城とを併せて一郭と見るべきか。」としているという。
「信濃の山城と館」には「…高度が高い割には近隣の諸城への見通しは悪く連絡性は欠ける。花小屋城の一部は見えるが牛伏城は見えない。こうしたこちからも在地土豪の詰城的砦が、その後に太郎山の尾根を見張る砦として活用されたことも考えられる。」としている。
麓の虚空蔵沢の向いには矢島城がある。在地土豪であった北林氏を追放した神氏矢島氏の城という。矢島氏は諸資料から応永から永禄にかけて小県郡に存在したのは確かということであるので、目近の牛伏城・荒城はこれrに関わるとおもわれる。
ただ矢島城の南の堀の内に矢島氏居館があり、北の尾根上には眉間林の城があるとされる。牛伏城・荒城も全てが矢島氏に関わるとも言い切れない。

麓の虚空藏堂から登ると牛伏城を通るので、そのまま牛伏城の堀を越えて道を太郎山頂に登り進むことになる。

それなりに登る事になるが、途中左手に雨水貯めの窪みとも思える場所がある。但し当時の物の保証もなく単なる倒木の根の跡かも知れない。ただ中間地点辺りでもあり、この様な中継点があってもいいとは思う。
やがて坂が緩くなってきたら城域となる。

(ア)の堀切。小さく埋もれてもいるがはっきりとそれと判る。

(イ)の堀切。

写真では判りづらいが、(ウ)の二重堀切。

道の東側の二段の郭。

最上段の郭の北壁は(1)郭の高い切岸となっている。

(ウ)の堀切を振り返る。

(1)郭の虎口とおもわれる場所。
縁部に石積跡が残る。

虎口から見た(1)郭と郭北側の土塁。

虎口から登ってきた南方向の段郭を振り返る。


(1)郭東側は北側の土塁の裾がスロープ状に延び、土塁上に通じる。

縄張り図があった。

土塁脇の道。
土塁上から見た(1)郭。
土塁上は小さな郭程度の広さがある。石があったが、はて。

土塁上から見た(エ)の堀切。

(エ)の堀切土塁側切岸。
もしかしたら多少の石積があったかも知れない。

(オ)と(カ)の堀切。

城域北端から見た(オ)と(カ)の堀切。
なんだか心地よい稜線。

北への道は太郎山山頂まで続いているらしい。

西には沢向こうの尾根には眉間林の城があるという。
東は、?な展望であった。


後先が逆になったが、(1)郭南斜面の段郭を見てみたい。
特に道の西側にある二段の三ヶ月形の郭周辺には石積が多くみられ、雨水貯めの窪みと思えるものも伺えた。


2018、5月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...