古城(海野城・物見城)と小太郎屋敷に隣接した高台に位置する。
詳細不詳。小太郎屋敷ともども海野氏の関連施設と思われる。
古城(海野城・物見城)の堀を形成していたであろう三分川を少し上がった高台になる。
三分川は古城の天然の堀だあったろう。
現在は住宅地となり内部は確認できなかった。
古城を見下ろす立地であり重要な施設があったと思われる。
出典は失念したが、奥座とはは海野氏の家老をいうものらしい。
関係は分からないが以下に記しておく。
海野氏の家臣に春原若狭守がおり、小草野隆吉、奥座隆在ともいうという。
もとは信濃の豪族海野棟綱の家老で、天文十年(1541)棟綱が武田信虎の侵攻に抗して敗れて本拠を失うと後に真田幸隆に仕える。 永禄四年(1561)武田信玄の次男信親によって海野家が再興されると、その家老となり小草野隆吉と改姓したという。
元は春原氏(須野原氏)。丹治氏の末裔(武蔵七党の丹党)で、祖先は武蔵国から信濃国に移って海野氏に仕えたという。 当初は海野棟綱に仕えていたが、天文10年(1541年)の海野平の戦いで武田信虎・村上義清連合軍に敗れて四散した。その後、武田信玄に仕えた海野氏傍流の真田幸隆に従う。特に村上義清攻めでは、弟・春原惣左衛門と共に村上方に偽装投降して、家中霍乱に大きく貢献した。 永禄4年(1561年)、海野氏の名跡を継承した海野信親の家老職に抜擢された(Wikipedia)。
2017・秋
2018、7月追記
2018年4月18日水曜日
小太郎屋敷@東御市
古城(海野城・物見城)・奥座に隣接。
詳細不詳。奥座ともども海野氏の関連施設と思われる。
「臼田文書」の臼田氏は南北朝期に田中郷地頭として田中一帯を所領とし、滋野姓や田中姓、神氏を名乗ったりもしているが、文書内容から望月系の一族と考えられる。
そして所領を子や娘に譲る文書の中に、「小太郎屋敷」や「三分」が出てくる。
この小太郎屋敷や三分がどこの小太郎屋敷や三分かは分からないが、海野氏嫡流が代々小太郎を名のっているようであり、したがって小太郎屋敷がそう至る所にあるとも思えないのだがどうであろう。
田中郷がどれほどの範囲かは分からないという。
つまり、小太郎屋敷の場所を特定した説は見かけていないが、小太郎屋敷なる所領がこの小太郎屋敷である可能性もあるかもしれないのである。
海野氏古城と小太郎屋敷との境には三分川があるが、余程深い関係性がうかがえる。
そうした場合、佐久臼田から田中郷に入った臼田氏は海野氏や望月氏と深く繋がり滋野を称した。或はそもそも海野氏の別れが臼田に入ったものが、訳あって出戻りしたものなのかもしれない。
事実、春日氏や小宮山氏など海野氏一族とされる氏族は広範囲に広がっている。
往時のままの地形とは考えられにくいが、南は千曲川の崖、西も三分川が作ったであろう崖で、東側の畑地跡よりも2~3m高い地形で、北側には堀跡らしき形跡も見られる。
三分川を挟んで、「海野氏古城」と連絡路が在ったかもしれないが笹藪がひどく未確認。また北側は鉄道によってよく分からなくなっている。
「海野氏古城」の大半が千曲川により崩壊しているというのであれば、「小太郎屋敷」とされているこの場所も少なからず崩壊している姿と考えられる。
「海野氏古城」へは進入路が無く、また竹藪がひどそうなので調査は難しそうである。
東隅には石祠と大石が並んでいて、その東側は2段に落ちている。
並んだ大石の目的は不明。
北側の段差は堀跡かもしれない。
一帯は耕作の為のものか石積みが大く見られた。
「小太郎屋敷」から見た東方面。
千曲川の300mほど上流には求女川が流れる。
「小太郎屋敷」と「奥座」が三分川の東側にあるにあることを考えると、求女川も何かしらの境界であろう。
2017・秋
2018、7月「臼田文書」の稿を追記
2020、3月再訪。写真追加及び追記。
詳細不詳。奥座ともども海野氏の関連施設と思われる。
「臼田文書」の臼田氏は南北朝期に田中郷地頭として田中一帯を所領とし、滋野姓や田中姓、神氏を名乗ったりもしているが、文書内容から望月系の一族と考えられる。
そして所領を子や娘に譲る文書の中に、「小太郎屋敷」や「三分」が出てくる。
この小太郎屋敷や三分がどこの小太郎屋敷や三分かは分からないが、海野氏嫡流が代々小太郎を名のっているようであり、したがって小太郎屋敷がそう至る所にあるとも思えないのだがどうであろう。
田中郷がどれほどの範囲かは分からないという。
つまり、小太郎屋敷の場所を特定した説は見かけていないが、小太郎屋敷なる所領がこの小太郎屋敷である可能性もあるかもしれないのである。
海野氏古城と小太郎屋敷との境には三分川があるが、余程深い関係性がうかがえる。
そうした場合、佐久臼田から田中郷に入った臼田氏は海野氏や望月氏と深く繋がり滋野を称した。或はそもそも海野氏の別れが臼田に入ったものが、訳あって出戻りしたものなのかもしれない。
事実、春日氏や小宮山氏など海野氏一族とされる氏族は広範囲に広がっている。
藪がひどかったので、2020年3月再訪。以下追記してみた。
千曲川に面した崖上に目測15m、30mほどの平地がある。往時のままの地形とは考えられにくいが、南は千曲川の崖、西も三分川が作ったであろう崖で、東側の畑地跡よりも2~3m高い地形で、北側には堀跡らしき形跡も見られる。
三分川を挟んで、「海野氏古城」と連絡路が在ったかもしれないが笹藪がひどく未確認。また北側は鉄道によってよく分からなくなっている。
崖上の平地。
崖下は千曲川。「海野氏古城」の大半が千曲川により崩壊しているというのであれば、「小太郎屋敷」とされているこの場所も少なからず崩壊している姿と考えられる。
西も崖で、石積みが見られるが近世の土留めかもしれない。
西方三分川を挟んで「海野氏古城」が隣接するのが見える。「海野氏古城」へは進入路が無く、また竹藪がひどそうなので調査は難しそうである。
東隅には石祠と大石が並んでいて、その東側は2段に落ちている。
並んだ大石の目的は不明。
東側2段の下に、崖がえぐられたところがあるが堀跡とは言い切れない。
北側の段差は堀跡かもしれない。
一帯は耕作の為のものか石積みが大く見られた。
「小太郎屋敷」から見た東方面。
鉄道越しに見た「小太郎屋敷」。
三分川と「海野氏古城」。
三分川の少し上流東側は「奥座」と呼ばれ海野氏関連施設と思われる。
海野氏の家臣に奥座隆在(小草野隆吉)がいて、武蔵国から信濃に移って海野氏に仕えた春原氏一族らしい(Wikipedia)が関係性はわからない。
「小太郎屋敷」と「奥座」が三分川の東側にあるにあることを考えると、求女川も何かしらの境界であろう。
2017・秋
2018、7月「臼田文書」の稿を追記
2020、3月再訪。写真追加及び追記。
2017年12月19日火曜日
海野氏古城@東御市
古城・海野城・物見城とも。
「長野県町村誌」に「海野組字三分にあり東西五町、南北四町、南は高崖、その裾を千曲川がめぐる。南北は平坦の地なり、寛保二年(1742)八月満水にて東南千曲川へ崩壊し、今城地僅か残り畑となり、城の前という地名あり、海野氏代々の城跡なり…」とあるという。
「東部町誌」では居館の規模五町、四町は540m、430mとなり、このような広大な居館は中世にはないとし、城の前という地名も常田の南方で三分とは1㎞も離れているとする。
しかし同書では、海野古城の裾を千曲川がめぐり、南が高崖というのは事実ではないかとする。根拠は佐久の伴野氏・根井氏・大井氏、丸子町の依田氏・長瀬氏ら中世初頭に活躍した武士の居館の多くは、みな段丘崖上に立地し、それは川の働きが今日の社会とは違っていたためでないかとしている。
千曲川の洪水で崩落し、殆どが消滅してしまったという。
![]() |
「東部町誌」より転載 |
「東部町誌」海野氏居館の項で三分地籍が千曲川によって大きくえぐられた事を図で説明しており、三分地籍は今よりずっと南方に張り出しており、削り取られた旧東山道に沿って海野氏の館があったのであろうとしている。
しなの鉄道線路から南方の千曲川流域までが館地とすると、旧東山道は館のどちら側を通っていたものか。
「南は高崖、その裾を千曲川がめぐる」位置で、かつしなの鉄道線路付近までとすると旧東山道の道筋は現在とほとんど変わらないということになる。
太平寺城(海野館)参照。
棟綱は天文十年(1541)五月、武田・諏訪・村上連合軍との神川合戦で敗れ、同族とされる真田幸隆共々上州へ逃れている。その後棟綱が帰郷することはなかったと思われることから、それ以前には太平寺城に居を移していたことになる。
すぐ北側は一段髙い段丘になっている。こちら側にも堀があったはずであり、写真のような不自然な窪地はその名残りであろうか?
三分川は今よりも少し東を流れていたらしい。
天然の堀となっていたのだろう。少し上流の段丘上に「信濃の山城と館」地図に奥座とある台地がある。
奥座は海野氏においての家老をいうと何かで見た気もするが、さて。
竹藪密集地も踏み入る隙もなく、遺構の確認は非常に困難そうである。
「信濃の山城と館」地図には三分川を挟んで小太郎屋敷が隣接してある。
ここも遺構の確認は困難そう。
![]() |
この先に白鳥神社と海野宿がある。 |
近くには県があり、千曲川対岸には南方がある。これらが「大宝律令」(701)以前の大和政権と直接結びつくとは到底考えられないが、「…東部町の屯倉は、大和政権の勢力が地方に浸透していく過程で、信濃国造級の豪族によって大和政権に献上、または摂収されるかによって成立した…」(「東部町誌」)ものと考えられ、この地域一帯が、大和政権と深い関係にあり、信濃の国造もきわめて重要視していた地域であったことを裏付けているという。
同書では他に、東部町(現東御市)一帯が古代に交通の要衝地であること、朝廷と関係をもった技術者たち「爪工部」の存在を挙げ、屯倉の主は一志茂樹氏の「大伴氏であろう」という推察を取り上げている。
大伴氏のことは他で考察するとして、大伴氏の氏寺と居館がこの辺りに関係しそうなので少し記す。
信濃に入った大伴氏の一族は信濃各地で牧場を経営したが、海野・祢津・望月の三氏も大伴氏を祖とする一族であろうという説は有力である。
「日本霊異記」(平安時代初期、一説に弘仁13年 (822) )に大伴連忍勝が嬢里(おうな)に住み氏寺を創ったとあり、一志茂樹氏は本海野、海野宿本陣宅の裏の地形が居館あとではと推察し、氏寺は法華寺等の地名から白鳥団地を含む一帯ではないかとしている。
また、近くの中曽根親王塚や兜塚の古墳との関係も指摘されるがここではおいておく。
海野宿は古城と目と鼻の先であり、白鳥団地を含む一帯は海野氏が古城より居を移した太平寺城を含む場所である。
こうした場所を海野氏が継承したところをみると、古城の在った所も大伴氏の何らかの施設があった場所であった可能性が高いのではなかろうか。
![]() |
海野宿と白鳥神社 |
海野氏参照。
大伴氏
白鳥神社参照。
興善寺が参照。
海野氏に関しては大族でもあり、勉強不足でこれ以上は書けない。また追記することとする。
海野宿の白鳥神社前から見た古城全貌。
2018、5月加筆
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