詳細不詳。奥座ともども海野氏の関連施設と思われる。
「臼田文書」の臼田氏は南北朝期に田中郷地頭として田中一帯を所領とし、滋野姓や田中姓、神氏を名乗ったりもしているが、文書内容から望月系の一族と考えられる。
そして所領を子や娘に譲る文書の中に、「小太郎屋敷」や「三分」が出てくる。
この小太郎屋敷や三分がどこの小太郎屋敷や三分かは分からないが、海野氏嫡流が代々小太郎を名のっているようであり、したがって小太郎屋敷がそう至る所にあるとも思えないのだがどうであろう。
田中郷がどれほどの範囲かは分からないという。
つまり、小太郎屋敷の場所を特定した説は見かけていないが、小太郎屋敷なる所領がこの小太郎屋敷である可能性もあるかもしれないのである。
海野氏古城と小太郎屋敷との境には三分川があるが、余程深い関係性がうかがえる。
そうした場合、佐久臼田から田中郷に入った臼田氏は海野氏や望月氏と深く繋がり滋野を称した。或はそもそも海野氏の別れが臼田に入ったものが、訳あって出戻りしたものなのかもしれない。
事実、春日氏や小宮山氏など海野氏一族とされる氏族は広範囲に広がっている。
藪がひどかったので、2020年3月再訪。以下追記してみた。
千曲川に面した崖上に目測15m、30mほどの平地がある。往時のままの地形とは考えられにくいが、南は千曲川の崖、西も三分川が作ったであろう崖で、東側の畑地跡よりも2~3m高い地形で、北側には堀跡らしき形跡も見られる。
三分川を挟んで、「海野氏古城」と連絡路が在ったかもしれないが笹藪がひどく未確認。また北側は鉄道によってよく分からなくなっている。
崖上の平地。
崖下は千曲川。「海野氏古城」の大半が千曲川により崩壊しているというのであれば、「小太郎屋敷」とされているこの場所も少なからず崩壊している姿と考えられる。
西も崖で、石積みが見られるが近世の土留めかもしれない。
西方三分川を挟んで「海野氏古城」が隣接するのが見える。「海野氏古城」へは進入路が無く、また竹藪がひどそうなので調査は難しそうである。
東隅には石祠と大石が並んでいて、その東側は2段に落ちている。
並んだ大石の目的は不明。
東側2段の下に、崖がえぐられたところがあるが堀跡とは言い切れない。
北側の段差は堀跡かもしれない。
一帯は耕作の為のものか石積みが大く見られた。
「小太郎屋敷」から見た東方面。
鉄道越しに見た「小太郎屋敷」。
三分川と「海野氏古城」。
三分川の少し上流東側は「奥座」と呼ばれ海野氏関連施設と思われる。
海野氏の家臣に奥座隆在(小草野隆吉)がいて、武蔵国から信濃に移って海野氏に仕えた春原氏一族らしい(Wikipedia)が関係性はわからない。
「小太郎屋敷」と「奥座」が三分川の東側にあるにあることを考えると、求女川も何かしらの境界であろう。
2017・秋
2018、7月「臼田文書」の稿を追記
2020、3月再訪。写真追加及び追記。
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