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2019年11月20日水曜日

市の諏訪神社@小諸市大字市



市の諏訪神社入り口の石灯籠
鎮座年代は不詳詳。古書及び口伝等によれば、慶長の頃まで他所に在ったものを現地に移転奉祭したのが初まりの様だとある。
祭神は健南方命、八重辞代主命❨事代主)、阿波能姫命(阿波津姫命か)、伊許那姫命(伊豆那姫命か伊邪那岐か)。(現地案内板より)
案内板の祭神名は当て字であろうか。筆者浅学ゆえよく分からないのだが、当てはまりそうな神名をはめてみた。諏訪神である建南方以下は良いとして、伊許那姫が伊豆那姫であるなら謂れが気になるところ。

移転元の場所は調べてもわかりそうにないが気になる。
慶長❨1596~1615❩の頃には在ったと云うので歴史はあるようである。

東側500mには鷺林城、北には五ヶ城北浦館がある。
鳥居

一基だけの石灯籠
境内
鎮座年代は詳かではありませんが、古書及び口伝等によれば、慶長の頃まで他所に在ったものを、現地に移転奉祭したのが初まりの様であります。
旧御本殿は貞享三年❨1686年❩建立にして拝殿の屋根葺替が、元禄十年❨1697年❩に行われたとの古文書もあります。
尚現在の御本殿は文久四年❨1868❩の造営であり、鳥居の建立は天保六年❨1835❩とみられます。❨平成元年記❩

拝殿。奥の本殿は直接見れないが立派に見える。
本殿西側の境内社。
本殿東側の境内社。
境内裏。北側には川が流れるが、古い街道も近くを通っていたと思われる。


境内から東側に見える鷺林城。


2019、11月初訪

2019年6月24日月曜日

諏訪神社@北佐久郡立科町塩沢

旧塩沢村の村社で諏訪の末社という。
創建年月日は不明だが、口碑の伝うるところによると天慶三年(940)に王代神社として建立されたともいう。
東北方200メートルほどに昭和十年ごろまで医王山龍泉寺があったといい、その持庵の薬師庵あとが境内地の東の平地にあるという。
境内にあるケヤキの巨木はこの神社の古きを物語っている。

この周辺は太古の御牧に関係する地域とみられ、非常に歴史が古い。
「王代神社」の古名が気になるところである。
関連は不明だが、南500mには岩下氏に関わるものか「大城」があり、台地上には「高根塚古墳」も残っている。

鳥居脇の道祖神と馬頭観音?

鳥居。「諏訪大明神」とある。

参道を行くと大欅と案内板。

 諏訪神社
祭神 八坂刀売神 事代主神
 旧塩沢村(現立科町塩沢区)の村社にして諏訪大社の末寺である。建御名方神の妻である八坂刀売神と兄である事代主神を祀る。
 創建年月日は不明ではあるが、口碑によると天慶三年(940)に王代神社として建立されたともいう。
現在の祭日は九月十七・十八日である。
 境内社には火防の神である秋葉・愛宕の両社、大山祗神を祀る山神社、菅原道真公を祀る天神社などがあり神社統合令により明治四十年ごろ村内各地より遷座された石祠である。また、豊受社は戦後上原より遷座された。
 社の背後、東北方二〇〇メートルほどのところに、昭和十年ごろまで真義真言宗智山派の医王山龍泉寺があり、江戸時代には三十戸ばかりの檀家があったが漸減して半分以下になってしまったので、立科町町区の正明寺へ合併され廃寺となった。その持庵の薬師庵跡が境内の東の平地にある。
 境内にある欅の巨木はこの神社の古きを物語っており、正面入口の右の鳥居は明和三年(1766)に建立されたものである。
立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会

八坂刀売神を祀るのは下社に関わるものか。各地の諏訪社にも建御名方神を祀るところ、八坂刀売神を祀るところ、両神を祀るところがあるが、地域性などがあるのだろうか。機会があったら整理してみたい。

欅の巨木のひとつ。

山門の様な、神楽舞台の様な。

境内社。

拝殿と本殿。

拝殿左側の石塔類。

医王山龍泉寺廃寺跡かは分からないが北側の平地。
北側の平地の土手下には墓石類。東の薬師庵跡というのがここか。





2019、6月初訪

2019年6月14日金曜日

彦狭嶋王御陵・諏訪大宮神社@佐久市協和比田井

諏訪神社と大宮神社の合社であるようだが謂れはよくわからない。
境内には「王塚古墳」があり、彦狭島王の墳墓と伝承されるかとから「彦狭嶋王御陵」の名がつけられている。

彦狭島王の墳墓と伝承されるものは各地に幾つもあるそうだが、この諏訪王宮神社境内の古墳も彦狭嶋王御陵の伝承がある。しかし実際は古墳の方が300年以上も新しい時代のものらしい。また、正確な名称は忘れたが、近隣には皇后古墳や皇子古墳があり、彦狭嶋王伝説を後押ししている。
関連は不明だが300m西には内城(比田井の城山)があり、「長野県町村誌」では、故に王城、内裏窪の地名があるといい、按に古昔官舎の地なるべしとある。
彦狭島王伝承は伝承としても、この地の古い歴史が偲ばれる。

参道入口の案内板。
読めないけど。

『日本書紀』の景行天皇55年2月の条に「彦狭嶋王を以って、東山道の都督(かみ)を拝(ま)け給ふ。是、豊城命の孫なり」の記事が見える。豊城命は豊城入彦のことで、上毛野(かみつけぬ・群馬)下毛野(しもつけぬ)君の始祖であるそうな。孫の彦狭嶋王が春日の穴咋邑(あなくいむら)に到り病に臥(ふ)して亡くなった。東国の百姓、この王が来なかったことを悲しんで、ひそかに王の亡きがらを盗んで上野国(かみつけののくに)に葬ったそうな。春日穴咋邑は今の奈良市古市町で猿田彦を祀る穴栗神社の一帯がその伝承地でもあるが、旧望月町では春日地区一帯に比定する考えが有力である。(「週刊上田」93 伝承を読む 旧望月町⑦(2007年8月25日号)

亡きがらを盗んで葬ったのが上野国(群馬県)である事から、彦狭嶋王が病に臥して亡くなった春日の穴咋邑はこの地であるとみるのが自然という考え方であるらしい。


「諏方・大宮両宮」
境内。
御神木。

参道脇の民家(神主宅?)前にある石塔の残欠。

祭殿。

境内社。

祭殿の東側に王塚古墳がある。

王塚「彦狭嶋王御陵墓」
「望月町誌」によると、横穴式の円墳であるが入口は確認できないとある。
かなり昔から柵で取り囲んで祀られていたようで、その昔、田の代掻をしていた馬が離れ王塚に駆上り即死したとか、ネット上「諏訪大社と諏訪神社」にも「二百年以前の由、少女幼児負い春摘み草に出、王塚に登り二人共即死致し…」などとあり、この古墳に乗ると祟りがあると語り継がれているという。


浮島のような諏訪大宮神社。


2019、6月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...