2018年7月19日木曜日

月輪寺廃寺@佐久市印内

月輪寺廃寺石塔群
光明山月輪寺。「がちりんじ」と読む。
望月の印内は江戸時代初期まで院内であり、ここに中世から近世まで月輪寺があった。

墓地の説明板や「望月氏の歴史と誇り」によると、伝承として「大同年間(806-810)に開かれ、四〇〇年間を経て大破したので、建久二年(1191)源頼朝が改修再建した」という。
五輪塔の銘文、望月仲重の正嘉二年(1258)などから鎌倉時代中期には存在していたと思われるが、望月氏の菩提寺の性格が濃いとされる。頼朝再建の信憑性は低いが鎌倉時代の初め頃に月輪寺が存在しなかったとも言い切れない。
天正年代(1573-92)に焼失し、望月氏も勢力を失ったことから戸隠山の末寺となり、近世領主の交代によってだんだん寺領を減らされ、明治六年(1873)廃寺となった。

月輪寺跡
おそらく印内公民館(写真左中央奥の屋根)周辺一帯が寺領であろう。公民館の裏山には石塔群があり、多くの五輪塔や宝篋印塔の残欠が並んでいる。
これはすぐ隣の竹藪のはばに埋もれていたものを村人が現状のように整えたものという。
写真山中に見える小屋は石尊神社の祠で、そのすぐ右側が石塔群である。
すぐ隣の竹藪とは祠の左側に見える竹藪のことか。

印内公民館前の細路地。
寺地から、県道を越えた旧道まで参道がのびていたという。
おそらくこの細路地が参道であろう。
旧道から参道へ入るところに惣門があったという。

公民館。
寺院の在ったのは中里坊の南寄り、上里坊との境に近い。
公民館横にも数基の石塔が残っている。

公民館から見た隣の上里坊地名。

裏山は山坊という地名でよばれる。
右の道すぐに石塔群がある。

山坊から見た中里坊(公民館屋根周辺)と左は上里坊でその先には学頭着地名がある。
右手は下里坊。奥は鹿曲川に至るまでの地名三千仏となる。
三千仏の意味は分からないが、学頭着地名から月輪寺に学頭が置かれ、坊の広さから、かなりの数の僧がいたと推測されている。

月輪寺跡石碑群の説明板。

入口付近。
馬頭観音等、この辺りは近世のものであろう。

左衛門尉仲重の銘のある五輪塔。
入口から撫でるように順番にのせてみた。

左衛門尉仲重の銘のある五輪塔の地輪。
「左衛門尉仲重
法名□□逝去
五十六歳
正賀二年戌午
三月廿九日酉尅」
とあるという。
「望月町誌」には法名の下は先学で「蓮生」と読まれているが、□蓮生と一字入るようだとある。また正賀二年戌午は正嘉二年戌午(1258)である。
どこにも望月とは無いが、月輪寺にあって、左衛門尉を名のり、しかも本名に「重」の字を用いていることから異議はなかろう。この塔は仲重の冥福を祈り供養の為に建立されたものである(「望月町誌」)という。
「望月町誌」では望月氏の諸系図に仲重の名はないが、銘文から建仁三年(1203)の生まれであることがわかり、仁治二年(1241)を最後に「吾妻鏡」の記事に見られなくなる望月重隆の子の年代にあたる。望月氏の系図は、重義ー重隆ー盛重(一に師重)と記されたものが多く、嫡子相続者がわかるだけだが、仲重は重隆の子にあたる庶子かもしれないとある。

左衛門尉仲重の銘のある五輪塔を囲む連結塔式笠婆。
復元すると笠の部分が繋がっているという。

先に石塔群は近くの竹藪から掘り出したとあったが、こうして形が整っているところをみると、この部分は初めからここに在ったものか、或は掘り起こした形状を再現して並べられたものであろうか。
そうでなければ、連結塔式笠婆の中が誰であったのかは不明ということになる。

ほか、延慶元年(1308)、建武二年(1335)、暦応二年(1339)、興国七年(1346)、応永一〇年(1403)、文明八年(1476)、文明十三年(1481)、延徳元年(1498)、明応二年(1493)の銘が確認できるという。


現在、石塔群の横には石尊神社があった。
詳細は分からないが、歴史はごく浅いものと思われる。

お約束の御神体。

郷土史家によるものであろうか、説明板が置いてあった。




雲龍寺(安曇野市)寺宝の1つである木造大日如来坐像(像高29.5cm、桂材、寄木造、彫眼)は文明2年(1470)に制作された古仏像で墨書から佐久郡望月に境内を構えていた月輪寺から塔原氏が雲龍寺に遷したと推定されている。

また、月読命に関する伝説のある城光院の月輪石は、もともと月輪寺にあったとされる。



2018、7月初訪

2018年7月14日土曜日

夏目田氏館@東御市県

「長野県町村誌」に「夏目田氏遺跡、県村中央夏目田組にあり。凡一町許り、今向屋敷と云う。里伝に夏目田左近将監国平居住の地と云う。大系図に夏目氏、夏目村の地頭職と賜ふとあり。」
棗村あるいは棗田村の名称は、夏目田氏の拠点であったことによるともいう。
中世この辺りは海野氏支配地であるので海野氏に関わり、居館の広さから相当有力な氏族と考えられるという。(「信濃の山城と館」)
向屋敷・番匠田・構の前の小字は中世豪族夏目田氏の居館跡と伝え、その小字は、おおよそ東御清翔高校グランドから、その北方の橋に通じる道の間までの一帯という。

当時からのものかは分からないが、東側から見た左のグランド(夏目田氏館)と右の校舎側との段差。
手前が求女沢川と二本ある橋のうちの下の橋。

西側を流れる求女沢川。
天然の堀の役目をしていたのだろう。


夏目田氏館跡とされるグランド。

北側、求女沢川付近から見た夏目田氏館跡。
この付近は段畑の古い石積や石塔があり、よい雰囲気である。
ただ館との関わりは素人にはよく分からない。

北側付近。
北側の求女沢川に向かう道。
以上の一帯が向屋敷・番匠田・構の前の小字であろう。
グランドからこれら北側一帯が夏目田氏館跡と伝わる場所という。

求女沢川の西側対岸には諏訪神社寿福院がある。
謂れや夏目田氏との関連性は知らないが、無関係ではなかろうと思われる。
写真は二本ある橋のうちの下の橋。

グランドの東側道路付近。

東側には、現在あがた御膳水公園があるが、周囲より窪地となっている。
夏目田氏館の直接の堀としては離れすぎの気もするが、関連性は在りそうである。


グランド北側は少し高くなっている。

さらに北側一帯は緩い傾斜の水田地帯。
祢津城が見える。


グラウンドから南側の校舎までは、付近の地形から元々は、なだらかな斜面であったと推測される。
校舎より更に南側、役所関連施設周辺は急斜面であったようだ。

求女沢川と奥の夏目田氏館。


「長野県町村誌」の「…里伝に夏目田左近将監国平居住の地と云う…大系図に夏目氏、夏目村の地頭職と賜ふとあり。」とある。
おそらく平安時代末期に奥州合戦での功によって信濃国更級郡夏目郷の地頭職を与えられた国忠の子国平が分家し夏目氏を称したことをいっているようで、「夏目左近将監国平」と「夏目田左近将監国平」は同一人物とも考えられる。
つまり夏目田氏と夏目氏が同一氏族である可能性のこと事をいっているように思われる。

夏名氏は村上氏の庶流であるといい、二柳氏初代国高の孫国平を祖とするという。
国平の父、二柳国忠は源頼朝に仕え、藤原泰衡に対する奥州合戦の時、軍功があって信濃国の夏目村の地頭職を与えられた。二男だった国平は二ツ柳家より分家し、夏目邑(石川邑夏目平)に移り夏目氏を称したという。
夏目国平は安元元年(1175年)? - 嘉禄元年2月3日(1225年3月13日)(Wikipediより)の人で、東御市の夏目田氏館もその時代まで遡る可能性もある。

夏目氏は、室町時代前期には三河国六栗に移住したといい、戦国時代には徳川家康に仕え、三方ヶ原の戦いで武田勢から家康をかばって討死した夏目吉信がいる。夏目漱石はその後裔であり、そのルーツは信濃の夏目氏ともいわれている。

そうなると夏目田氏と海野氏、或は祢津氏との関わりがどの様なものだったのかが気になるところである。
室町中期には、求女沢川東岸の祢津田中・祢津小田中は祢津氏支配(御符札之古書)で田中氏や小田中氏があり、大塔合戦(1400)では、祢津氏を大将とする配下に小田中氏の名があり、同じような条件の地にある夏目田氏が海野氏に関わるのも変である。
また、求女沢川と三分川の上流をみると、海野氏と祢津氏の領界は三分川と見るのが自然であり、夏目田氏が必ずしも海野氏と深い関わりがあったとは言い切れないように思う。
「東部町誌」にあるように、早い時期は各氏の所領がモザイク状に点在していたというので、夏目国平が安元元年(1175年)? - 嘉禄元年2月3日(1225年3月13日)の人とすると、その時代には夏目氏の所有地が在ったということになろうか。

夏目氏の城は篠ノ井石川の湯入神社のところで、夏目漱石の先祖の碑がある。
二ツ柳氏二ツ柳城跡もすぐ近く。
夏目氏が信濃を去った理由はわからないが、南北朝の動乱が考えられるか。
夏目田氏は夏目氏なのだろうか。




2018、6月初訪
2019、1月夏目氏の件追記

2018年7月9日月曜日

夏目田の諏訪神社@東御市県夏目田

鳥居の額には諏訪神社とだけある。
おそらく郷社で諏訪社自体は近代の勧請と思われるが、すぐ東の求女沢川の対岸は夏目田氏館であり関連も推測される。
この求女沢川は海野氏古城近く三分で千曲川に注いでいる。

新張の滋野神社の口伝に、「井子の氏神、夏目田の氏神は、滋野神社を勧請(分社)したもの」と言われているが、夏目田の氏神とはここのことかもしれない。

南に隣接する寿福院
謂れや関連は調べてないので不明。


拝殿。
境内西にある鳥居と祠。記憶にないのだが、稲荷社か。


諏訪系の立ち梶の紋。
横手の土塁状石積。
屋敷跡か、古墳跡か、目的がわからないが、もしかしたら川の氾濫を防ぐ堰であったものかもしれない。




2018、6月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...