2017年7月31日月曜日

実相院@上田市真田町傍陽


金縄山実相院観音寺。
創建は神亀2年(725)、行基により開かれたという。
元の位置は山の北西、奥宮とされる「堂平」という所で霊応山慈済寺実相院といったらしい。大同元年(806)、坂上田村麻呂将軍東征中、角間渓谷の「毘邪(ひや)王」という鬼を馬頭観音の霊験により捕らえ、鉄縄で縛ったことから金縄山慈済寺実相院と山号を改称し、この地に移ったという。
本尊の馬頭観音は鎌倉時代(1185頃 - 1333)初期のもの。
実相院には、明治の神仏習合で明治の廃仏令で廃寺になったき、山家神社別当寺であった白山寺の本尊だった木彫りの十一面観音像遷され所蔵されている。



応永3年(1396)の落雷、天文年間(1532~1555)の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失。寛保2年(1743)に当時の上田城の城主松平伊賀守が本堂を再建している。
懸造の観音堂は天明3年(1783)に移築再建されたもので20年間の歳月がかけられたいう。


門柱。


金縄山の記❨縁起❩
当山は神亀二年、僧、行基法師の建立と伝う。本尊馬頭観世音、字峯山の奥、保科に通じる「堂平」は奥の院にして、霊応山慈済寺実相院と呼ぶ、坂上田村麿将軍、東征のみぎり角間の岩窟に鬼賊「毘耶」を観音の御加護により刑しこの山下に埋む古墳あり。
「毘耶」の後生善処のため延命地蔵尊を安置す、将軍鉄縄をもって「毘耶」を縛せしにより金縄山観音寺実相院と改む。
「堂平❨どうだいら❩」「多寒平❨たかんだいら❩」=高平=より将軍寺院をこの地に引下す、時に大同元年なり、1150年前。
応永三年落雷のため炎上、天文年中、兵火により、ことごとく、焼失す、その后、承平二百、寛保二年上田城主松平伊賀守本堂再建、天明三年西陵岩上に広壮静寂美の舞台造りの観音堂を移築再建二十有余年間の才月を経て寛政十二年入佛供養終了、焼失の堂跡を蓮池と成し今日に至る、開創神亀二年より昭和五十年に至るまで法燈1251年、住持の世伝、六十六代なり、境内より南方なに佐久平をはじめ立科、八ヶ岳の裾の彼方に富士山が展望される閑寂な観音霊場なり、❨宗教法人天台宗比叡山末実相院❩
境内の主なる堂、塔、碑、老樹
鬼松鬼石の古墳、宝篋院塔、法華一宇一句塔、当山縁由記碑、一茶句碑、延命地蔵堂、鐘楼堂、英霊殿、?住霊園、神代杉、桜の老樹

 参道と六地蔵。

 境内左右。金縄学校跡碑。

 本堂。

鐘つき堂。

一茶の碑と池。これが焼失の堂跡という蓮池か。
碑はよく読んでないがおそらく、古池や蛙飛び込む水の音…かな。

実相院宝篋印塔
実相院の宝篋印塔。
南北朝時代の真田の宝篋印塔として、穴沢の弾正塚宝篋印塔、本原の中原宝篋印塔とともに貴重である。
貞治6年(北朝年号、1367)3月の陰刻がある。この宝篋印塔は「堂平」より一段低い「高寺」にあったという。それを明治初年に現参道入口の付近に移し、さらに昭和初期本堂前の現位置へ安置したという。
将軍執権堀田式部少輔の建立とされるが、堀田式部については資料にないという。(後の真田家臣堀田作兵衛興重の祖であろうか。)

 新しそうな石祠。
古そうな石祠。

戦没者慰霊殿。
謎の釜。
大杉。これが神代杉か。

鬼松地蔵堂
鬼松地蔵堂。
毘邪王を縛った松、埋めたとされる鬼石を祀ったものという。
鬼賊「毘耶」を観音の御加護により刑しこの山下に埋む古墳あり。という鬼松鬼石の古墳がどれなのかわからないが、鬼松地蔵堂のこの場所ということか。




観音堂
天明3年(1783)に移築再建という懸造りの観音堂は必見。


さて、「堂平」という所、真田町教育委員会の地図でみると結構な山奥である。
これは推測で検証はしていないが、当地域の横尾・曲尾の中世の城館近くに寺院があるように、洗馬城・堀の内屋敷跡の近くに現実相院があることから、実相院は洗馬城・堀の内屋敷が造られるとともに現地に移ったとするのが自然なのかと思う。1400年の大塔合戦に横尾・曲尾・実田の名が見えることからそれ以前ではあったろう。
洗馬城参照。
萩の館(堀の内)参照。


古刹であることに違いないだろうが、行基により開かれたと云う追慕による伝承は全国の至る所にある。
また、大同元年(806)の坂上田村麻呂将軍東征もいかにもな話しであり、やはり東日本に多い。
大和朝廷による蝦夷征討は「天武系」から「天智系」へと皇統が移ったことの正統性主張と権威誇示の意味合いもあったともいわれ、大同年間を開基とされる説の寺社が各地に多いのも、大和朝廷による蝦夷征討を経たことによる何か一つの時代的な区切りを意味していると言うことなのだろう。

鬼とされる毘邪王についても、朝廷に従わない輩を指すものとするのが妥当であり、伝承の「鬼達を率いて村人に悪行の限りを尽くしていた。」とは勿論限らないわけで、安曇野に伝わる「八面大王」が盗賊として描かれる反面、民を救おうとした英雄としても描かれるように、概ね鬼退治伝説は大和朝廷による旧時代の制圧、支配を意味するものと考えてよいものと思う。勝者の歴史に埋もれたそれは先住の民族だったかもしれないし、またその文化のことであったのかもしれないという事である。

毘邪王の根城は角間渓谷の岩屋とも鬼ヶ城ともいわれているが、渓谷への入口付近には真田氏に関連するとされる松尾古城跡や日向畑遺跡があり、諸説ある真田氏発祥の地とされるうちのひとつである。
その真田氏の出自は大伴氏を祖とするという説もあり、毘邪退治はその朝廷勢力である大伴氏による旧勢力の征服であった可能性もある。大伴氏は馬をもって畿内に威を張った豪族で、信濃の牧経営にも関わると推測されているからである。
伝説で「田村麻呂は毘邪を都に連行しようとしたが、あまりに泣き喚くので…」とあり、それは馬を飼う技術(者)を持ち去ろう(掌握しよう)とする意図と受け取れる。泣き喚いた毘邪は鉄縄に縛られたまま埋められてしまう。

真田町には馬牧に関わると思われる地名が多くみられ、古代の国牧ではとの推測がなされていて、実相院本尊の馬頭観音も地域の馬牧経営を示唆するものとされている。
この実相院のある洗馬周辺こそ真田氏発祥の地であるとされる所以の一である。

馬頭観音の信仰の起源がいつかはわからないが、実相院本尊の馬頭観音は鎌倉時代(1185頃 - 1333)初期のもの。また「日本最古の明確な造像例は石川豊財院の木像で,11世紀の作と推定される。」(ウィキペディア)ことから推察するに、毘邪退治伝説は早くても平安後期以降に馬頭観音の霊験として併合創作されたのではないかとおもう。
勿論、古代の国牧ではとの推測がなされている真田地域に早期からその土壌があったものなのであろう。

もう一つ。
馬を飼う技術は渡来系の技術であり、製鉄もまた渡来系の人達の技術である。
この地域が古代の牧があったなら鉄との関わりもありだろう。
諏訪大社の伝承「洩矢神の鉄輪を武具が建御名方神の藤の枝により鉄輪が朽ちて敗北した。」の意味するのは製鉄技術の新旧交代という説もある。
「毘邪を鉄縄で縛った」鉄縄とは何を意味するのであろう。
鉄をもたない毘邪が鉄により負かされた。あるいは諏訪の洩矢神のように旧い鉄が新しく強い鉄によって征服されたことを示唆しているのかもしれない。

但し真田地域の製鉄を物語るものは、十世紀代(平安時代)の境田遺跡、四日市遺跡の小鍛冶遺構で、鉄滓などが出土し同遺跡出土の鉄製農具との関連を指摘されているのみであり、六世紀末前後の古墳時代後期とされる住居跡や古墳群からは鉄製品は出土するものの、製鉄の痕跡は指摘されていない。


週刊上田の「石船と女神」(滝沢きわこ)中で「古代朝鮮語」による地名等の解明に触れており非常に興味深い。
2007年4月21日号「石船と女神・おはなしと解説」中、真田町の鬼伝説にふれ
「坂上田村麻呂将軍が、丸子町の鬼窪(荻窪)から鬼沢(神川)を通り角間(真田)の「毘耶(ひや)」という鬼を退治したそうな。その時、田村麻呂将軍、鬼を縛ったのが鉄縄だそう。
地名も、菅平のスガは鉄磨ぎと読める。真田は鉄生みの地。長と書いて「お(を)さ」は、韓国語で大きな存在を表すウサ・ウシ・ウス。日本に来て「をさ」という大和ことばになったとされる。一方、をさ・うし・うすは丘鉄(鉄鉱石)のことだが、砂鉄まで含む「鉄」全般を指称する語であったと言われるのは、李寧熙先生である。」
(注・李寧熙先生とは東京出身の韓国人作家、『もう一つの万葉集』著者。)
(中略)、
「鬼(鍛冶師)を金縄で縛ったとの伝説の地、傍陽の実相院境内で風化した花崗岩を発見した。花崗岩の中に砂鉄はほぼ遍在しているそうである。洗馬(鉄の場の意と考える)川の地名もあることから、ここも名だたる鉄処であったことがうかがえる。」
と締めている。

この「石船と女神・おはなしと解説」は面白いので「石舟神社」の項あたりでもう少し取り上げたいと思っている。
また、未見だが「鉄こそ歴史だ!!真田の強さは鉄にあり」(宮島武義氏著)という古代朝鮮語から歴史を紐解く試みた郷土本があるらしく一読したいと思っている。


以上寺伝から妄想を広げ、備忘録とあるように勝手なことを書き連ねたが、実相院が毘邪や朝廷勢力にどのように関わったのか。また地域の氏族との関係など、整合性を図れるよう多面的に研究を続けられたらと思う。





2017年初訪。
2019、11月再訪。写真追加。一部追記。

2017年7月24日月曜日

廣山寺と御北之塚@上田市真田町本原

「元亀三年(1572)に現在の場所に移されたと伝わっています。もとは「十輪寺」と呼ばれ、真田氏本城の麓にあったお寺だと考えられます。おそらく原の町を造る際に、お寺を新しい町に移したのでしょう。こうしたことから、真田氏が御屋敷や原の町を造ったのは、16世紀後半と考えられます。これは、幸隆が砥石城を独力で攻略した後のことです。」(週刊上田)


開山に関しては、永禄八年(1565)、元亀三年(1572)、文禄二年(1593)等言われてよくわからないが、天文二十年(1551)に真田幸隆(幸綱)が戸石城を攻略し旧領を回復した後というのは納得できる。

「長谷寺」の伝では長谷寺の三世、廣山存沢が開山したという。
真田幸隆が、上州(群馬県安中市)の長源寺より伝為晃運和尚を招いて「長谷寺」を建立したのが天文十六年(1547)とされるので、幸隆は戸石城攻略以前に旧領を回復していた可能性があり、天文十九年(1550)七月二日の武田晴信書状で「本意に(砥石城攻略)なったうえは、諏訪形の300貫と横田遺跡上条(上田原か)の合計1,000貫をあてがう」(真田文書)とあるのもそれを後押しする。

ただし、長谷寺の二世、角翁和尚が群馬県渋川市に「龍伝寺」を建立したのが天正九年(1581)というので、三世である廣山存沢の「広山寺」開山はそれ以降ともいえる。その場合、文禄二年(1593)開山説が妥当と思われる。

このとき問題になるのは、天正八年(1580)二月死去とされる「御北の塚」である。
広山寺境内の裏手には、後述する幸隆の長男源太左衛門信綱の室、お北の墓とされる塚があるが、文禄二年(1593)の開山説では「御北の塚」が既にあったことになる。
「御北の塚」が本当に「お北の墓」であるならば、そこは塚が建てられる理由があった場所であった可能性が考えられ、広山寺建立以前に寺院、或いは居舘があったことを想像してもいいかもしれない。

「広山寺」は、本原に御屋敷や原の町を造るのに伴い、長の十林寺にあった寺院が移され広山寺と改称したもののようであるが、おそらく幸隆が旧領を回復したとき既に十林寺の寺は戦火で荒廃していたものと考えられる。

十林寺は真田本城❨松尾城❩の麓で、地名のほかに「十林寺跡」や「おたっちうの松の碑」等、寺院の存在を示唆する史跡がある。
広山寺は曹洞宗であるが、十林寺に在った頃もそうだったかはわからない。


「御北の塚」
境内の裏手には幸隆の長男・源太左衛門信綱の室・お北の墓がある。
高梨政頼(中野市、箱山城主の娘とあり、井上次郎座衛門の養女となって嫁いだとする説もある。天正八年(1580)二月死去。

「広山寺の墓地には真田信綱夫人の墓と伝わる「御北之塚」がある。信綱は昌幸の長兄で初代幸隆の嫡子にあたる。家督を継いだ翌年、長篠の合戦で戦死したため二代目になった昌幸が、その夫人を丁重に遇したと伝わる。墓は信綱寺にもあるが、ここは夫人の領地が多くあった地域なので、その縁で塚が作られたのであろう」(観光パンフレット)

「於北塚」本村中原組廣山寺の境内にあり。北なる者は真田源太左衛門信綱の妻にして天正三年五月二十一日、信綱長篠に戦死の跡、本村に移り居す。跡地を今御屋敷と云う。横尾村に信綱寺を建立して信綱の霊を慰す。同八年二月十日歿して、廣山寺に葬る。塚上一株の松を植えて標とす。里人於北塚於北松と講す。其松天明中暴風の為に顚仆す、當時住僧寛成英雄の妻貞固の操名、古松と共に朽ちなんを歎じ、一碑を建て其名を千歳の後に傳ふ。(長野県町村誌)

真田源太左衛門信綱は、天正三年(1575)五月、長篠の戦いに戦死している。
お北は、天正八年(1580)二月死去という。

「小県郡御図帳」に、北さま(於北殿)知行などとして合計13筆80貫文があり、本原辺りの信綱知行地と館を於北が相続したものか、真田信綱の館は「真田氏館跡(御屋敷)」とする説が有力だが、既述のように「御北之塚」に隣接して在った可能性もあるかもしれない。

「真田氏館跡」には信綱の女中が住んだと伝わり、長篠の戦いで命を落とした真田信綱を偲んで妻の御北が植樹したとされる「お北の松」がある。


三面にはぎっしり漢字が彫られているが、素人の解読では心許ないので孫引きすると、石碑は寛政7年(1795)に建てられたもので、その碑文には「ここは真田候夫人の埋葬された所で、昔からお北の塚と称している。塚上に松の大木があったが、暴風雨で倒れてしまった。このままでは、そのいわれも何もわからなくなってしまうので、石碑を建て、冥福を祈るものである」といった意味のことが刻まれているらしい。









2019年だろうか、再訪したら丁寧な説明板があった。ありがたや。



2018年再訪
2020年2月改稿。説明板写真追加。

大室古墳群@長野市松代町大室





約500基の古墳の中には、盛り土をした盛土墳(前方後円墳など)や土石混交合墳もあるが、八割近くが小石を積み上げて墳丘とした渡来人墓制である積石塚で、「合掌形石室」という特殊な埋葬施設となっていることから、他に類例の少ない遺跡として1997年(平成9年)7月28日に国の史跡に指定された。この形は全国に40例、そのうち25例がこの古墳群に集中している。(ウィキペディア)

大室古墳群中最大規模の244号墳。












見所は信州松代観光情報ホームページさん参照

石室の天井部に板状の石を三角形の切り妻屋根のように組み合わせた合掌形石室(撮り忘れたらしく写真に無い)は、全国でも珍しいという。 積み石塚は高句麗、合掌形石室は百済の墓制と関係があるとする説もある。 出土遺物に馬具が多く、馬の飼育と渡来系の人々の関係が指摘されている。 『延喜式』 による甲斐・武蔵・信濃・上野の四ヶ国に設けられた御牧 32 牧のうち、信濃には 16 牧が置かれ、「大室牧」の名が見える。 『延喜式』は平安時代中期(967年(康保4年)より施行)に編纂された格式で、大室古墳群は5 世紀から8世紀にかけて築造されており、「大室牧」設置以前よりの馬生産をうかがわせる。 或は大室古墳群の末裔たちによって「大室牧」は成り立ったのかもしれない。

文化と写真 Culture and Photo Galleryさんの修士論文「長野県の古代朝鮮半島からの渡来文化 -大室古墳のルーツをたどる-」に詳しく、おすすめしたい。

近くに大室氏の霞城跡がある、小笠原長清の末裔、時光を祖が大室牧の牧監となり、大室氏を名乗ったという。

大室古墳群
長野市 松代町大室 310


2016年2月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...