2020年3月26日木曜日

龍洞院@上田市蒼久保上青木

曹洞宗の寺。
開創は畑山にあった「鳳林寺」で、応永年間(1394~1428)の開創から五代続いたとされる。
永正元年(1504)砥石城主村上顕国(村上義清の父)が出家入道し、鳳林寺を改め、顕国公の院号から龍洞院と称し開基。
開山は本寺である群馬県館林の青龍山茂林寺二世、南渓正曹で、顕国の兄(義清の伯父)であるという。
天文十九年(1550)頃、村上義清と武田信玄、真田幸隆との砥石城の戦のとき焼失。
天正五年(1577)現在地に再興したとされる。

おおよその流れは以上のようである。
一説に、開闢は村上顕国公の歿年永正十七年(1520)となっているといい、村上義清が父顕国のために畑山に一寺を創建ともいう。
また一説には永正元年(1504)、村上義清の祖父であった戸石城主の村上石(右か)京大夫が、鳳林寺を改名して一山正心を開祖として開創ともいう。
現在地に再興されたのも、天正八年あるいは三年ともいう。
寺には、開基の位牌と鳳林寺開祖の一山正心、開山、開基の自筆の軸三本が残っているという。一山正心は鳳林寺の開山開基で、南渓正曹は龍洞院の開山ということらしい。

龍洞院の沿革は後述する「龍洞院保存会記念碑」にもう少し詳しい。

文政八年(1825)、龍洞院十三世住職の活文禅師は岩門大日堂に隠居したが、幕末の志士、佐久間象山が18の頃に松代から通って1年間学んだ師となっている。


門柱と尾崎翁石碑と、左の小さなお堂は詳細不明、右の祠は天神宮か。
小さなお堂。
天神宮祠。鎮守社と思われる。
六地蔵。

参道。
「門無雅客到 坐豈乏清風」壬午仲春吉 風幡山主書
活文禅師の漢詩が刻まれた石碑。
「門に雅客到るなし坐豈清風に乏しからんや」と読むらしい。
壬午とは文政五年(1822)。風幡山は龍洞院の山号。
「活文禅師遺跡」
禅師は安永四年(1774)松代藩士森粂七次男に生まれ十歳で小県郡和田宿信定寺の祖眼和尚の門に入り仏弟子となった。しかし勉学の志を忘れられず24歳の時から長崎江戸に学びのち名寺龍洞の院住職となったが、周囲と折り合わず文政七年(1824) 岩門の大日堂に隠居し寺子屋を開いた。文政十二年には常田の毘沙門堂へ移り寺子屋を続け弘化二年(1845)七十一歳で示寂されるまで十六年間子弟の教育に尽くされた。当寺には禅師の遺墨遺品文書及び墓等が残っています。

別の資料によると、活文は松代藩士・森五十三重喬の次男として安永四年(1775)年五月十八日に誕生。
天明四年(1784)九歳の時に和田村の信定寺で出家。
二十五歳の時、長崎に留学し中国語や詩文、書画、一弦琴を学び、さらに江戸に遊学。
三十五歳の時、信定寺住職に。
その後、文政二年(1819)上田市蒼久保の龍洞院十三世住職となり、文政七年(1824)五十歳で岩門大日堂に隠居し寺子屋を開く。佐久間象山(啓之助)は文政十一年( 1828) 十二年の春まで一年間大日堂に通ったという。
門弟は千余人といわれ、文政十二年(1829)五十四歳で常田の毘沙門堂に移り私塾「多聞庵」を続け、弘化二年(1845)五月、七十歳で生涯を閉じた。
門下生に象山のほか高井鴻山、山寺常山がいるとある。

遺骨は龍洞院と常田毘沙門堂に分納され、龍洞院にある無縫塔の正面には「十三代鳳山活文竹庵禅師」と刻んであるという。


参道。

「龍洞院保存会記念碑」
鳳林寺開祖の一山正心は、北朝方元号応安二年(1369)四月寂とある。
天文二十年の焼失後、角間の岩屋堂に移り、東田沢の青木入りに堂宇を営み、天正五年村上源吾国清の助力で青木窪の浄地に再建とある。

流転先である角間岩屋堂、東田沢の青木入り、との関わりが気になるところ。

参道。

山門。「龍蛇窟」。

境内。

本堂。

客殿。

鐘楼。

裏手にある五輪塔群。
一箇所に集められたもののようだが、村上顕国に関わる五輪塔という。
一際大きい五輪塔は一貫したパーツではないようだが、水輪は古い時代のもののように思える。が素人の筆者にはよくわからない。
龍洞院は畑山から二度三度と流転しているようだが、現在も村上氏の紋を寺紋にしている。村上国清による再建ともされるが、開基の位牌や鳳林寺開祖の一山正心開山開基の自筆の軸が残っていることからも、村上氏の縁者によって受け継がれてきたものと考えられなくもない。檀家が気になるところ。









2020、3月再訪

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