2019年5月24日金曜日

芦田城@北佐久郡立科町茂田井

古町の東、標高806メートルの半独立の小山が芦田城。
麓の古町には館があり、周辺には城に関わる地名が多くのこされているという。


芦田城の築城は依田芦田)光徳が、文安二年(1445)ころに築いたと伝えられている。しかし「満濟准后日記」によれば、永享七年(1435)正月以前に、既に築かれていたことがわかる。(立科町誌)

「満濟准后日記」に「…大井モアシタモ要害を構へ候。…」とあるアシタの要害がこの城とされるらしい。
「芦田氏征伐」の過程を簡単に触れると、芦田下野守は坂城の村上頼清、滋野一族の海野氏祢津氏らと鎌倉公方足利持氏方に与して守護小笠原氏、その同族である守護代大井越前守持光と対立抗争を続けていた。
室町幕府は信濃守護小笠原政透(政康)に大井氏と協力して芦田氏を征伐するよう指示している。
翌永享八年(1436)三月の「小笠原文書」から、守護側の軍が千曲川を越えて祢津氏の芝生田城別府城を攻撃したことが知られる。滋野一族が降服すると後ろ盾を失った芦田氏も降服し、以後は大井氏に仕えた様子が「諏訪御符礼之古書」からわかるという。

案内板等で滋野系芦田氏が築いたとあるのが、この芦田下野守とは言い切れないが、後の依田信蕃に続く依田系芦田氏とは別の滋野系芦田氏により築城されたと考えられているようである。
その根拠の要点を記すと、「滋野三家系図」に芦田が記されており、津金寺の宝塔銘から、滋野一族の芦田氏が山部一帯を支配していたと推測されること、「芦田征伐」に滋野一族の海野氏・祢津氏らが鎌倉公方足利持氏方に与した反幕府勢力としてあることに対し、依田郷を本領とする依田氏の系は「室町幕府諸職表」に、康永二年(1343)から室町幕府の右筆方奉公人として何人もの名があり、なにより依田貞朝(貞朝)が右筆方奉公人の地位にあったのは永享四年(1432)から康正二年(1456)で、大井持光と芦田下野守が抗争していた時期と重なり、同一氏族としては矛盾があることなどである。

依田光徳・芦田光玄以後の芦田氏は「依田記(芦田記)」などにより依田流であることに間違いないとされる。
永享八年(1436)七月に芦田下野守が守護小笠原政透に降ると、依田庄の依田光徳が芦田に進出して芦田氏を名乗り、文安二年(1445)に芦田城を築城したと伝う。これは滋野系芦田氏が築いたものを改修したものと考えられている。(以上「立科町誌」より筆者の解釈による)

以後は依田氏系芦田氏が芦田城を伝領したと思われ、後に春日城に移ってから支城として機能したのではないだろうか。
上記のほか、茂田井の井上氏系甕氏にも芦田を称している者がいるようで、いっそう芦田氏の系譜を難しくしている。

フリーハンドの縄張り絵図なので参考程度に。

古町集落からこの橋を渡って道なりに進むと(3)の下の駐車場の所に行ける。他に城の東側の堀跡から(4)の郭に取り付く道と筆者は未踏だが公民館前の道から竹林を通る南の道もあるらしい。
橋を渡った左側一帯(土屋氏宅)が「芦田氏館」の中心であろうと推測されるようである。(「信濃の山城と館」)

少し登った道がつの字に曲がった付近では(ア)(ウ)(エ)の堀がいっぺんに確認できる場所である。実はこれらの堀が芦田城で一番の見所であると思うのだが、ここで出てしまったのでこれらの記事を続ける。

(ア)の堀。道路に遮られているが、西の土手を下り(ウ)と並列して土屋氏宅の北側を通り、芦田川まで達していたようである。「芦田屋敷」の堀の役目もしていたのかもしれない。
土屋氏宅の北西付近。(ア)か(ウ)の堀の名残であろうか。
古町から見た芦田城。左の山との間に(ア)(ウ)(エ)の堀がある。

(ア)の堀はこの東のずっと先、東側の登り道のあるところで南へ折れて芦田城をL字に取り巻いて(オ)の堀に達しているようである。

(ウ)の堀。決して大きくはないが少し東側では(エ)の堀と並列してやがて一つになっている。
(ウ)の堀と(エ)の堀の分岐点。間は土塁状の盛土。
分岐点付近の石祠。
(ウ)の堀の最東端と思われる窪地の旗。この様子をみると、中間から西端の(ウ)は畑地によって狭められている可能性がある。
(ウ)の堀はやがて(イ)の堀と接続する。
(ウ)の堀(左の道)は(イ)の堀(手前側の道)と、この位置て接続するようで(イ)は南で(オ)の堀に接続している。
この東南の方に馬場池があり馬場であったという、この場所も馬出であったものか。
(オ)の堀。
(オ)の堀の西側は解放されているが、付近の地形をみると芦田川まで堀は続いていたようにも思える。
(オ)の堀は(イ)の堀と接続しているところから東側へ谷状に続いている。
谷の東側では二股に分かれている場所を確認できるが、その先は未調査。おそらく上の馬場池からの沢と思うのだが、用水池が出来る前から在ったはずで、南面の堀の役目をはたしていたと推測する。
馬場池。この用水池はむかしは馬場だったという。二枚目のおくの山は陣場。芦田城の備えとも、芦田城攻めの時のものとも考えられている。
馬場池付近から見た芦田城と付近の光景。おそらく馬場池から西の付近一帯も馬場であったのではないか。

そして最大の見せ場、(エ)の横堀である。
翠川家墓地を挟んで(エ)の横堀。長さも規模も大きなもので、尾根上の城郭にあるところの大堀切に相当するものであろう。
ほぼ独立の小山といえる芦田城ならではの長大な堀切といえる。

(エ)の横堀の南端から追っていく。
付近からの光景。
むろん住時のままでないのであろうが、馬場から馬の乗り入れを考えられているかのような開口部である。
南端付近は細く浅い横堀だが、北に行くにつれて広く深くなっていく。
翠川家墓地付近は車も乗り入れられるほどになる。
瀬下家墓地への道を横切った付近から勾配がついて北へ下っていく。
土塁と土塁上から見た(エ)の堀。
北端に近いところの東側は切谷の複雑な地形となるが、明らかに人工的なものも見受けられた。
洞窟を抜けたかのような(エ)の堀北端開口部。
振り返ると離れがたい気持ちになる。そういうことは史跡めぐりをしていてたまにある。
(エ)の堀北端部は芦田川に接していたと思われるが、先に南端部でみたように人馬の南北通路としても機能したものかもしれない。写真の中央左奥は「芦田氏館」と推測される付近である。


さて、つの字の道に戻ってさらに進むと、案内板のある駐車場のところにつく。
芦田城
芦田城は、鎌倉期に滋野系芦田氏により築城された山城と推測されている。坂城の村上氏が小県、佐久地方に侵入するに伴い村上氏の配下である小県の依田氏と高井の米持氏は連合して芦田城主滋野重房軍を急襲、ついに落城し平安以来続いた滋野系芦田氏は滅亡した。(依田系芦田滅年文明十八年1486)。
新たに領主となった依田又三郎光徳は姓を芦田に改め城を再建整備し居館を芦田川を挟んで城と相対して構えた。
光徳より五代目芦田信守の代には戦国時代となり要害の地を求めて春日城を共有(天文十三年1543)武田氏の配下となり川中島や東海地方に戦功をあげた。芦田氏の中で天下に名声を博したのは六代信蕃で武田氏滅亡後徳川家康の佐久統一の命を受けほぼその任を果たし弟と共に岩尾城攻めで戦死した(行年三十六才)。信蕃の戦功により七代目の長男は十四歳にして姓を松平、名を康国と主君より康の字を与えられ六万国の小諸城主となった(天正二年1574)。
天正十八年秀吉の小田原攻めに康国出陣、名倉城攻撃、落城に際し敵の計略にかかり死亡、時に康国二十一才であった。弟康貞がその後を継ぎ藤岡城主三万国に転府された(天正十九年1591)。佐久の武士や領民など主君を慕い、多く藤岡に移住し城下町を築いた。
立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会


筆者は浅識であるので、この案内板の殆んどの出典先を知らない。
「…村上氏が小県・佐久地方に侵入し、村上氏の配下である小県の依田氏と高井の米持氏は連合して芦田城主滋野重房軍を急襲…滋野系芦田氏は滅亡した。(依田系芦田滅年文明十八年1486)。…」いろいろと解釈はできるが、やはり滋野系芦田氏と依田氏系芦田氏を混同しているものと思われる。
高井の米持氏は既出の井上氏系甕氏、倉見城と関わるか。
滋野重房については調べていないが、重は望月氏によく使われるので望月氏関係の者が在ったと考えたものと思われる。
今「芦田氏館」と推測されるところは芦田城の麓で、居館を芦田川を挟んで城と相対して構えたというのがどこか気になる。

すべてとは言わないが、教育委員会や市町村の設置した案内板には気を付けなくてはいけない。文字数の制限で説明不足なのは仕方ないが、明らかに史実と辻褄の合わないものを見かけることも多々ある。ただ、書籍等で知りえない情報が得られる事があるのもまた事実である。

2019、5月追記
立科町教育委員会 1990 『立科町文化財調査報告書2:大庭遺跡』に以下の記述がある。
「(前略)…甕氏・芦四氏について大沢洋三先生は、「佐久の東山道」の項で「芦田城は、望月氏 と同族の滋野系甕氏の城に違いない。茂田井の無量寺も滋野系甕氏の開基だと言われている」 と芦田氏と甕氏を同一族として考えられ、また滋野系声田氏が減びた理由について「文明18年12月 、村上顕固は、高井の豪族井上氏の一族である米持氏と小県の依田氏と連合軍を組織して声田城を攻め、城主滋野重房は討たれ平安期以来五百年に渡って繁栄した滋野系声田氏は滅びたのである。」と説を述べている。…(後略)」
案内板はこれが出典と思われる。

付近の風景。足下には郭状の削平地などもみえる。
聖観音堂。ここは主郭を取り巻く(3)の郭になるらしい。

すぐ上が(2)の郭。天望台と三つの石塔。左から「三笠神社」「御岳神社」「八海神社」と読める。

その上が(1)の主郭である。これら西側の道はどこまでが本来の道か分からないが、主郭の虎口は東側というので、この土手の道は本来のものでないようである。
主郭の南面を除く三方は土塁が取り巻いている。
土塁は北東隅が一番高いようで幅もある。
木の宮社。これは後世に越前福井藩家臣となっていた芦田氏が先祖の霊を祀ったものという。「木宮」は「城宮」からきたものという。「木の宮城」の呼称はここからきたと思われる。
東面に開いた虎口付近には石積の跡らしき形跡がある。
(1)の主郭から(2)の郭を見下ろす。

東側の(2)の郭と(2)からみた主郭切崖。
西の登山路は観光地的な様相であったが、主郭東側はいわゆる山城を巡っている感はある。
東側の(3)の郭と(2)の切岸。
東側の切岸には石積もみられる。(3)と(4)を中心に土留の低い石積が随所にみられるが、畑地化した時期があると思われるので、城としてのものかは判断出来ない。
(3)郭の北側は藪化していて見通しが効かない。

南側の(4)郭。南斜面はこの下に数段の段郭があるらしいが確認はしていない。
東から北側の(4)郭はこんな感じ。

(2)の北西隅が面白い造りだった。

「信濃の山城と館」では大まかに、登路を(エ)の堀から登り、(ウ)の堀の辺りから入り、(ア)の所の道を上がった。または、公民館からの道から西側の竹林を通って上がる道があるとし、後者の方の可能性が高いというが筆者は未調査である。

光徳寺から見た芦田城
芦田川対岸の光徳寺は文明年間(1469~87)芦田城二代目城主、芦田右衛門太郎光玄が父初代城主芦田備前守光徳の追福のために建立したという。
光徳寺と蓼科神社里宮のある山、その北側の山、馬場池の北の山など周辺に気になる地形もある。南の陣場も調査したいがゴルフ場所有の山のようで躊躇している。
案内板に「…居館を芦田川を挟んで城と相対して構えた。」と一説もあるように深く調査したら面白いものがあるかもしれない。
関連性のある至近の城として茂田井の倉見城があり、古いもののようである。



2019、5月初訪

0 件のコメント:

コメントを投稿

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...