勧請年暦は不明。社は東西26m、南北20mの広さがある。真田家や仙石家から除地されたとの記録が残っていることから代々この地を治めていた領主から大事にされていたことが推測される。(真田三代 傍陽コースより)
鳥居は少し離れた集落内にある。
奥の森が宮原神社。
向かい合う道祖神。
左右それぞれの結界の間に鳥居とは何の暗示か。
拝殿。
梶の葉紋が至る所にみられる。
祭神は建御名方神と八坂刀売神
諏訪系の神社である。
鎌倉時代建久元年(1190)創祀、室町時代末期本殿建立。永禄二年(1559)真田安房守昌幸上田在城の砌曲尾郷高辻の内四貫八百文除地社附す。嘉永四年(1851)四月吉田家より宮原神社社号許諾あり、昭和五九年堀内猪之助翁が社殿を再建寄贈された。
1300年代のものという御神木という。
木の根の股。こういう所に付き物のあれは無かった。
本殿裏の石祠群。
本殿裏の社。境内社のどれかだろう。
稲荷神社。
本殿を後部から。
裏にいろいろ書いてあったが、土手に迫っていてきちんと読めなかった。
境内から見る横尾城(尾引城)の裏側。
北西には洗馬城。
西には根古屋城(曲尾城)。
鳥居を挟んで左右が向かい合う道祖神があったが、それぞれの結界は所領の境界を意味しているとは考えられないか。
根古屋城と洗馬城は曲尾氏に関する城と言われており、横尾城には横尾氏が拠ったとされているが、指呼の距離に在ってその境界は曖昧であることを以前から疑問に思っていた。
宮原集落の歴史を知らないで言うのもなんだが、曲尾氏と横尾氏の所領の境界がこれではないかと思ったわけである。
曲尾の交差点付近から見た宮原集落。
中央の小山の右側が宮原神社の場所だが、周囲は見通しのよい緩い斜面であり、この小山が非常によく目立つ。
古墳か何かであろうと思われるが、書籍等漁っていないので断言はできない。
宮原神社が頂上でなく、東斜面の麓に祀られていることは何か意味がありそうである。
宮原神社の裏手、北東側から見たところ。
さらに北から見たところ。
西側側面。
小山の北方はこんな感じ。
南西側。
墓地となっている。
古墳、屋敷地跡、砦跡、等考えられるが、掘割や堀の跡など素人にはわからない。
以下参考までに。
境内南側は一段低く、古い鳥居の石柱が残っている。
稲荷社鳥居前の若干の窪地と段差。
稲荷社鳥居前の広い平地は畑跡であったろうが荒れている。
境内裏はわずかに数段になっているが畑地の跡だろうか。森を北に抜けると畑地で最頂部付近である。
最頂部付近で唯一の石塔か。ただの自然石か。
最頂部付近からの眺め。
結局遺構らしきものは見付からなかった。発掘調査するわけにもいかないので後の研究で何か分かったら追記したい。
ここには何かある。
2018、12月再訪
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