2018年6月27日水曜日

櫻井神社@東御市滋野乙桜井


祭神は建御名方命と事代主命の二神。
はじめ「諏訪神の社」と言ったが、明治になって「櫻井神社」と変えたという。
明治十七年に炎上したが、西にある稲荷社とともに明治二十年に再建されたもので、本殿の彫刻は宮大工尾沼勝次郎源直則の作という。
「神社本殿の彫刻は太田道灌の句ではないだろうか」といわれている。
例祭は十月一日で、生島足島神社の神官が勤めるという。(「桜井の発見」秋山隆明より)。

創建年も謂れもわからないが、祭神からも諏訪系の神社であることはわかる。
元禄十六年(1705)神官に根津権頭の記録があるというので、それ以前には存在していたのだろう。
鎌倉時代「吾妻鏡」に1206年、三代将軍源実朝の前で、モズで小鳥を捕ってみせた信濃の武士、鷹匠桜井五郎がいるが、桜井氏は鷹狩の故実家である祢津氏に関わる氏族とも思われ、この辺りが祢津氏領であることからも関連性が推測される。
しかし、佐久にも桜井はあり、東御市の桜井には屋敷跡を推測できる地字はみつかっていない。
「桜井の発見」に、もとは桜井村は塚穴あたりにあったとある。その近くには上屋久保などの小字もある。ほかでは、大庭脇・羽場・蔵ノ脇が屋敷跡を推測するに気にかかる所か。

桜井郷としては「御符札之古書」に長禄元年(1457)桜井宗郭、応仁元年(1467)桜井入道沙弥道清の名がみえるという。
この桜井氏は祢津氏の代官であろう。

櫻井神社の場所は宮地籍になるが、そのすぐ西南は前田地籍で「かじむら」というらしいが、緩い傾斜地を平地にするための高い石積や五輪塔郡がある。
そのさらに西南は羽毛田地籍で、「ここに羽毛田民部正という豪族が住んでいて、住居があったという。この人物は桜井側の塚穴遺跡と並ぶ古い時代の人物といわれるが、古い書物には今のところ見つかっていない(「桜井の発見」)」という。
塚穴遺跡がいつ頃のものか知らないので、羽毛田民部正という豪族がいつ頃の時代の人かわからないが、羽毛田姓は日本姓氏語源辞典を見ると長野県佐久市や上田市に多く。佐久市鳴瀬が本拠という。佐久市塩名田の小字に羽毛田あり。という。

羽毛田側、羽毛田地籍の西には宝蔵坊地籍があり宝蔵坊の石垣が残っているという。
桜井側にも蔵の脇や塔の前や寺山の地籍があるという。


本殿の三面に彫刻があるということだが、みえない…東面は「羅生門」の鬼退治、北面は「夫婦協力」、西面は「太田道灌の山吹の図」という。

わずかに…いや、南面だからやはり彫刻は見えない。

パネルがある。
太田道灌のの句「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の場面。
若き日の太田道灌が蓑を借りるべくある小屋に入ったところ、若い女が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので、道灌は怒って帰宅した。後に山吹には「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の意が託されていたのだと教えられ無学を恥じたという有名な話が『常山紀談』に載るという。

櫻井神社境内北側。
境内社は、字天神から天神宮。字東村から白山社。字小山から富士浅間社。字根岸から山ノ神社。字野地から厳島社が大正十五年にそれぞれから集められたものという。

西沢川をまたぐ宮前橋から北を見たところ。
奥の森が桜井神社。右側が天神地籍であろう。
おそらく祢津道とは別に新張へ向かう街道で、桜井集落の北には大石集落があり、大石城跡がある。さらに北は別府で別府城。そこはもはや新張で西に向かうと祢津である。
南の千曲川対岸は布下であるが、西の島川原には中世の市があり、渡しがあったろう。

西沢川。


五輪塔の多くある前田地籍は「かじむら」というという。


この辺りも前田になろうか、五輪塔が散在する。
この西が字羽毛田の地籍になろう。


2018、6月初訪

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