2020年3月13日金曜日

海善寺の滋野神社@東御市和

東御市には滋野神社が二つある。
一つがここ和の地字海善寺の滋野神社で滋野氏の氏神とされる。
紺屋町の「八幡宮」は天正12年(1584)に真田氏が上田城築城の際、海善寺の「八幡社」を移したものといい、この滋野神社はその「八幡社」の跡地になる。

もう一つは新張の「滋野神社」で、勅使牧の役人、滋野良成が大同年間(806年)に創立したと伝える。明治13年に滋野神社と改称したといい、元は諏訪系の神社と思われる。


祭神は応神天皇・神功皇后・姫大神。
創立は未詳。
伝承では大昔、海野郷内に移住した滋野氏代々の産土神で八幡大神を祭った。天延年間(974~976)に海野幸恒が再建という。

海野郷内に移住した滋野氏とは、一般に云われる滋野貞主(785 - 852)の推薦で一族の者が信濃の国司に任ぜられ信濃へ下向したといわれている。孫の滋野恒蔭(滋野大外記)が貞観 10 年(868)に信濃介となっている(「日本三大実録」)のがそれであろうか。
一説に平安時代前期の公卿滋野朝臣貞雄の孫が滋野恒蔭ともいう。
その滋野恒蔭の娘が貞保親王の御落胤目宮王を産んだと云い、その子である善淵王(貞保親王の孫)は、延喜5年に滋野朝臣姓を醍醐天皇から賜り滋野朝臣善淵と称したという。

海野幸恒は、望月牧監となり海野に下向した滋野恒信(海野幸俊と改名)の跡を継いだ海野氏2代目である。
海野氏に関しては、上田市山口の「白山比咩神社」に延喜四年(904)の海野幸明の再建札があるなど諸説あるらしい。

滋野神社の西には海野氏菩提寺である「興善寺」。南の白鳥台には海野氏居館である「太平寺城(海野館)」があり、三分には「古城(海野城・物見城)」がある。
すぐ東には「廃海善寺跡」があり海野氏の祈願寺であったというが、天正十一年(1583)真田昌幸が上田城を築いた際、城の北東に鬼門鎮護の寺として「八幡宮」近くに移転した。現在の「海禅寺」である。
海野氏にゆかりのあることは確かなようである。

 南の参道の鳥居。風化して読めない。

 参道。

 境内の鳥居には八幡宮とある。

手水鉢。
拝殿。
本殿。

 「由緒。ここのお宮は昔氏子の祖先が産土神を祀っていた処へ、京都男山の石清水八幡宮から分社された八幡宮を祀り、氏子はじめ東信地方の豪族海野氏からも厚く信仰され、五穀豊穣と家内安全を祈願し、その祭典には奉納の相撲や芝居の催しで社頭殷賑を極めし由
ここのお宮から上田市紺屋町八幡社や、更にそこから真田氏によって松代町にも分社されたと伝えられる。明治十三年に八幡宮から現在地滋野鎮の字名に拠り、滋野神社と改称された。(以下略)」

字地が「滋野鎮」というのは意味深い。
明治期に行われた「神社改め」で、名前や由来のはっきりしない祭神は変更させ、神社の名前も地名を冠したものに変更されることが行われたようである。
この神社の場合、名前も由来も伝わっているので「八幡宮」でも良いものを「滋野神社」に変えたのは役人の都合か、訳あってのものか。



 境内には白鳥河原の挙兵で木曽義仲が戦勝を祈願したという、御手植えの木瓜(ボケ)の木があり、紅白花を咲かせるそうだが、どれの事かわからなかった。




2018、6月初訪。

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