2020年2月29日土曜日

柏木城@小諸市大字柏木

築城年代不詳。「北城」「南城」「古屋敷」を総称して柏木城とされる。
地域の土豪が集落防衛の為に築いたのがはじめで、「古屋敷」から「北城」、「南城」と要塞化していったものと考えられている。

「柏木村誌」(明治十三年)には、「古屋敷」は古昔牧監等の邸の跡で、二城は大井氏により築かれ後柏木氏が拠ったとし、天文中(1532~1555)柏木六郎は武田晴信に降る。天正十年(1582)武田勝頼滅び柏木氏は北条氏に属し、また依田信蕃に降り後不詳とあるらしい。
これに対し「小諸市誌」では、塩野牧のあった頃から「古屋敷」はあったと考えてもよいが、塩野牧の中心は塩野寄りの地が想像されるので、牧監の邸の跡より牧田などを営む人々の集落があったと考えた方が適当とし、大井氏による築城と言うのも疑問視し、やはりはじめは付近の小領主と農民が一体となって集落防衛から要塞化していったのではないかとしている。

柏木城の北方1㎞には「駒形神社(長張城)」があり現柏木地籍である。この一帯も牧に関係したのは間違いないように思われるが、やはりこの地方では滋野系の一族を想像してしまうのは軽率か。
城内を流れる乙女川下流には「繰矢川城」がある。柏木城にとって要所であることから関係が考えられる。
柏木城の西方1㎞には「加増城」「大遠見城❨乙女城❩」がある。「与良城」に関わるのか柏木城に関わるのかわからないが、柏木城とともに「平原城」の西の備えとも、大井氏に関わるとも言われている。

柏木城の東方1㎞には「平原城」がある。
平原城の築城に関しても詳らかでないが、この地域一の巨城である。
文明十六年(1484)村上氏が大井氏を降し佐久郡を支配すると依田全真(平原善心)が入ったとされ、全真は村上氏の没落後、終生どこにも使えなかったという(「依田氏系図」)。全真の子信盛は武田氏に属している。
こうした状況から村上氏の佐久郡支配時代に柏木氏は平原氏と同盟もしくは服属していた可能性があり、村上氏没落後は武田氏に属したものらしい。
生島足島神社起請文に、平原城主依田又左衛門尉信盛、前小諸城主大井小兵衛満安とならんで、小林与右兵衛幡繁の名があるという。
平原城主、前小諸城主とともに名のある小林与右兵衛幡繁は柏木城主と考えてよいものと思われる。
武田氏滅亡後は北条氏に属し、北条氏が関東に去ると徳川配下の依田信蕃に服属した。このとき柏木六郎の名があがるが「姓氏家系大辞典」柏木氏に、「…小林氏より出でし氏にして、栢木六郎は天正中殺され、其の後栢木因幡・当城に拠る。甲斐にもこの氏あり、信濃より移るか…」と、小林氏は佐久地方史に時折見るがよくわからない。
依田信蕃の長男、依田康国(芦田氏・松平氏)が小諸城にはいると柏木氏も従い、小諸城に柏木曲輪として名残をとどめている。

柏木氏のその後は不明であるが、江戸時代の慶安三年(1650)、柏木小右衛門義利慶長(1608~1686)は時の小諸城主青山因幡守宗俊に新田開発を許可され御影用水を開発。浅間山麓奥の千ヶ滝を源とする上堰延長28km、さらに白糸の滝を源とし湯川より分水する下堰延長35kmの開発に従事。難所では金堀をもって岩石などを掘割、多数の人夫と多額の資金を投入して御影新田830石を開発した。



「北城」の南側に乙女川を挟んで「南城」があり、柏木川を挟んで西側台地は「古屋敷」があり「北城」の北側に「遠見平」がある。
これら「北城」「南城」「古屋敷」を総称して柏木城とされているが、「南城」と同じ台地上で北東側の東前畑にはかつて堀割跡が残り曲輪が存在したらしく「小諸市誌」では「東前畑城塞」と記している。
集落の中心がよくわからないが、おそらく「北城」、「遠見平」辺りが中心で、西側は「古屋敷」のある台地、東側は「南城」のある台地が相対し、双方その台地外縁は田切の崖によって進入困難であるといった要塞の姿が見えてくる。
北側と南側の防御がはっきりしないが、筆者は馬瀬口小諸線(県道134号)の一本南の旧道らしき道が北側の堀の役目をしていたのではと考える。また諏訪神社のある高台も北の防御として絶好の砦に見受けられる。南側の防御だが、東側台地は「南城」と「東前畑城塞」が連動して東南方向に対応し、「古屋敷」のある台地は国道18号の北側が台地上と田切の両方への進入路となることから重要な防御地点であると考えている。

以下個別に気づいたこと思ったことを記す。



「古屋敷」
「小諸市誌」に、「古屋敷」は「字北古屋敷」と「字南古屋敷」があり、北半が畑地で南半が工場用地とあるので、柏木川の流れる東の田切(尾尻の沢)と西の田切(字西久保の沢)に挟まれたかなり広い台地上、つまり南は国道18号付近から北は県道134号付近までの台地上が「古屋敷」であると解釈できる。
また「柏木村誌」(明治十三年)に、東西凡そ三丁(凡そ327m)南北凡四丁(凡そ436m)四境に大隍あり、中間に大隍ありて、二つの郭となる中に土塁あり、また小隍ありと記されているという。
「古屋敷」の規模はおおよそ当てはまるが、二つの郭、隍と土塁がよくわからない。
「柏木村誌」にも東北隅と西側に長く隍が残存とある。
筆者ははじめ、「二つの郭」とは東北にある「阿弥陀堂」と墓地のある台地とその南の谷(赤間堰)を挟んだ広大な台地のことを指し、「中間の大隍」とは柏木村誌のいう「東北隅の隍」でまさにこの谷のことと解釈したが、「小諸市誌」に字荒井の沢の中に字御堂反寄りに四辺が水蝕された小丘があり「北城」「南城」「古屋敷」と一連の城域云々とあるのがここと思われる。
つまり「阿弥陀堂」と墓地のある台地は「古屋敷」に含まれないことになる。
この谷川の上流になる西側の田切(赤間堰)(字原田の窪地か字御堂反の窪地)の南側台地には土塁跡かと思われる地形がある。
「四境の大壕」も東西の田切地形と南は国道18号の北側が考えられ、北はそういった現状から「阿弥陀堂」の北側の道路などが堀跡として想定できるか。
ただ、この解釈では「二つの郭」の片方が広大すぎて郭とは言い難く、広い台地上の北側の一部が城郭として機能機能を備えていたともいえるし、「東北隅の隍」は北端の堀で北南北凡そ四丁の台地上の中間辺りに「中間の大隍」が存在していたということなのかもしれない。

国道18号の北側。「古屋敷」台地の南端といえるところで、「北城」に続く田切(尾尻の沢)の入口に当たる。
また国道18号の南方、乙女川下流には「繰矢川城」がある。
「古屋敷」西側の田切(字西久保の沢)。
「古屋敷」東側の田切(尾尻の沢)。「北城」への進入路にもなる。
左崖上が「古屋敷」の台地。右奥の崖上が奥が「南城」の台地で、中央奥が「北城」でこの位置の重要性が分かる。ちなみに奥の山は浅間山。

「古屋敷」の台地と中央付近の石祠。氏を書きとめ忘れたが氏神であるようである。

北辺の「東北隅の隍」或は「中間の大隍」と思われる場所周辺。
西側は小川(赤間堰)が小さな田切地形を形成し、崖上の一部には土塁状の細長い盛土が見られる。
土橋の東側。小川(赤間堰)は谷となって東の田切(柏木川)に落ち台地を遮断している。
谷の対岸崖上は小さくまとまった平地で、「北城」「南城」「古屋敷」と一連の城域とされる。北側に墓地と「阿弥陀堂」があり寺の跡地の可能性もある。
東の田切(柏木川)には「遠見平」が見える。
「阿弥陀堂」と「もみじの大木

この「阿弥陀堂」は1736年後頃(享保21年後頃)一庵が建立、1846年(弘化3年)に再建されたと伝わる。
阿弥陀如来像は行基の作と伝えられ、脇侍に善導大師、園光大師を祀る。永く会津城主蘆名家の守り本尊として祀られてきたが、故あって越後高田藩、与板藩、小諸藩主の牧野家菩提寺泰安寺に移り、1846年に柏木村へ下賜されたとされている。
1872年には柏木阿弥陀堂第八十八番小学校止善学校としても使用された。

「阿弥陀堂」のある台地の先端。
写真左の切通しは先述したように旧道と思われるが、北側の堀の役目をしていたのではと考える。つまり田切地形台地を堀切る横堀である。
またこの北側にの諏訪神社のある高台も北の防御として絶好の砦に見受けられる。

「阿弥陀堂」のある郭の東側は柏木川の田切地形で、「遠見平」と呼ばれる小台地と相対する。
柏木川と「御堂橋」。



「遠見平」
「信濃の山城と館」では、「御堂橋」の南の台地から「北城」、「南城」へ続くあたりが中核となり、その周囲部にも砦を備えていたもののように考えられるとし、縄張り図には「北城」の北側台地に「遠見平」と記しており筆者の絵図もそれに伴っている。
これに対し「小諸市誌」「柏木城」の記述では、「北城」を「遠見平」の台地と捉えているようにも解釈できるのだが、他城の「大遠見」の記述では、「北城」と「御堂反」の間の高地を「遠見平」としている。
後述するが「北城」の解釈には少し悩むところがある。

「遠見平」北端。
この道も先述したように台地を遮断する堀切の跡で、先述の北側の堀の役目をしていたのではないだろうか。
「遠見平」東側側面。
腰郭的な中段も見られる。
「遠見平」の台地上。
北端から(F)の堀の中間あたりに(E)の堀があったような地形がある。
(F)の堀の際。
現在(F)の堀の南側は、先端部を残し削平されてソーラーパネルが設置されている。
「遠見平」先端の一部分が残っている。
西側は柏木川による絶壁となっている。
先端部上から浅間山、北東方向を見る。
先端部上から南方向を見る。
削平によって往時より低くなっているのか、「北城」とその先の「南城」までは無論見通せるのだが、特別この方向の展望は良いとは言えない。
「遠見平」と称するが、遠見の役目としては「南城」の台地のほうが適しているように思える。この場所は付近の監視や連絡を受け持つ役目だったのではないか。



「北城」
「…字荒井地籍の水蝕からまぬがれた台地を利用して北城を構築。この台地はまわりが隍のようにえぐり取られて小島のように残った台地で、そのままでも曲輪として要害であるが、傾斜のゆるやかな面には更に隍を設け、土塁を築き、また段曲輪を備えて守備を強化した。」(「小諸市誌」)
「北城」とされているところは、柏木川と乙女川が合流するところから北側一帯であるようだが、この記述にある「小島のように残った台地」から想像するような高台ではない。往時の柏木川と乙女川が現在の姿と違うことを考慮しても、防御の城というよりは古いタイプの居館跡地を想像してしまう。
それでも南から田切地形を北上する敵を想定するとここ以外の要害はない。
西側台地北側の「古屋敷」防御施設、東側台地北側の防御施設に「南城」と「東前畑城塞」を構築。中央の田切に「北城」、「遠見平」と南側を意識していしたことが想像できる。
「北城」は、この田切でもっとも広い場所で、おそらく耕作地も含まれていたものと考える。「傾斜のゆるやかな面には更に隍を設け、土塁を築き、段曲輪を備えた」とあるが現在では判断もつきにくいように思える。

「北城」(左高台)と柏木川。奥の崖上は「南城」。
柏木川に流れ込む「北城」を流れる堰。往時のものかは分からない。
「北城」南端部と崖上の「南城」。
「北城」と崖上の「古屋敷」。
「北城」と中央奥の「遠見平」。

「北城」東北部に小さな高台がある。
高台の北側は度々述べた堀切の道で、この場所で気になるのは、古木と道祖神のところに土塁状の盛土が見られることで、旧道が北側の堀の役目をしていたという根拠の一つである。
辻の形はいびつで、道祖神の向きなどが古い道を暗示しているようである。この高台の場所は「遠見平」と共に、集落にとっても「北城」にとっても重要な場所であったのではなかろうか。
道祖神。
乙女川の橋。
この道が古い道かは分からないが、おそらく古いと思われる東側台地への道には、ここから乙女川沿いの道と「南城」直下の道がある。



「南城」「東前畑城塞」
「北城」の南側、乙女川を挟んだ崖上の張り出した東側台地が「南城」である。
西前畑地籍になり、東前畑地籍には「東前畑城塞」があり互いに連携した防御施設とも考えられている。
実際に台地上を南北に遮断する形であり、「東前畑城塞」は東方面の監視と防御も兼ねていたと思われる。
「小諸市誌」に、「南城」の鍵の手に曲がっている窪地は意図的に掘られたもので、水を湛えれば水濠となり、その南方も郭で、その前面には空壕の痕跡が見られるとある。
現地では、実際に鍵の手に曲がっている段差地形は確認できる。しかし窪地は一部にしか見られないし、付近の地形の高低差、同誌にある四谷用水とのかみ合いがわからない為にどこのことを言っているのかしっくりこない。
崖の折れのあたりに土塁と堀切のあった形跡が見られる。
「小諸市誌」その南方も郭で、その前面には空壕の痕跡。とあるのがこれであるなら、張り出した台地100メートル四方程が「南城」ということになる。

「南城」の北東、東保育園付近にかつて「西方寺」が存在し、このあたりに「東前畑城塞」があったらしい。
「小諸市誌」に、「南城」との間や、東前畑地籍の少々小高い場所に縦横に幾筋か空隍が残存し、曲輪が認められたとある。
「東前畑城塞」の東側は田切地形の崖で、東方1キロメートルに「平原城」があり関係が示唆されるが、すぐ崖下に「八満坪の内館」があるらしくその関係も気になる。

「南城」北側の際に「北城」へ降りられる道がある。田切地形の崖に遮られた「北城」と「南城」の連携に対する違和感は解消される。
ここから南には崖下に降りる道は国道18号までない。
「南城」外縁。土塁と判断しかねるが、これは畑の畦か。
「小諸市誌」…その南方も郭で、その前面には空壕の痕跡とあるのがこれであろうか。
堀切のあった形跡と脇には土塁の残欠らしき盛土が見られる。堀切の延長を想定してみたがちょうど民家のところに行き当たるようで確証は得られなかった。

「南城」から「北城」を見る。
「南城」から田切南方を見る。

東保育園の横に石碑群がある。
この付近が「廃寺西方寺跡」であるらしい。そしてこのあたりに「東前畑城塞」があり、空隍と曲輪が存在したらしい。
東保育園前の畑。
木のあるところが窪地地形に見えるが確認はしていない。「小諸市誌」に団地造成等で云々とあるので、もっと東の崖際も含むかもしれない。
「東前畑城塞」東側の崖。
先述したが崖下に「八満坪の内館」、1キロメートル東方には「平原城」がある。




2020、2月初訪

1 件のコメント:

  1. 国文学研究資料館に所蔵される柏木家文書によると家系図は以下の通りです。小林遠江-柏木与兵衛-与良六郎(柏木六郎)-柏木才十郎-柏木小右衛門(御影用水を作り御影新田を開発)それ以降本家は11、2代になると思います。才十郎までは武田家に仕えておりますが、小右衛門の衛門の代から帰農したかたちです。

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