2017年7月24日月曜日

廣山寺と御北之塚@上田市真田町本原

「元亀三年(1572)に現在の場所に移されたと伝わっています。もとは「十輪寺」と呼ばれ、真田氏本城の麓にあったお寺だと考えられます。おそらく原の町を造る際に、お寺を新しい町に移したのでしょう。こうしたことから、真田氏が御屋敷や原の町を造ったのは、16世紀後半と考えられます。これは、幸隆が砥石城を独力で攻略した後のことです。」(週刊上田)


開山に関しては、永禄八年(1565)、元亀三年(1572)、文禄二年(1593)等言われてよくわからないが、天文二十年(1551)に真田幸隆(幸綱)が戸石城を攻略し旧領を回復した後というのは納得できる。

「長谷寺」の伝では長谷寺の三世、廣山存沢が開山したという。
真田幸隆が、上州(群馬県安中市)の長源寺より伝為晃運和尚を招いて「長谷寺」を建立したのが天文十六年(1547)とされるので、幸隆は戸石城攻略以前に旧領を回復していた可能性があり、天文十九年(1550)七月二日の武田晴信書状で「本意に(砥石城攻略)なったうえは、諏訪形の300貫と横田遺跡上条(上田原か)の合計1,000貫をあてがう」(真田文書)とあるのもそれを後押しする。

ただし、長谷寺の二世、角翁和尚が群馬県渋川市に「龍伝寺」を建立したのが天正九年(1581)というので、三世である廣山存沢の「広山寺」開山はそれ以降ともいえる。その場合、文禄二年(1593)開山説が妥当と思われる。

このとき問題になるのは、天正八年(1580)二月死去とされる「御北の塚」である。
広山寺境内の裏手には、後述する幸隆の長男源太左衛門信綱の室、お北の墓とされる塚があるが、文禄二年(1593)の開山説では「御北の塚」が既にあったことになる。
「御北の塚」が本当に「お北の墓」であるならば、そこは塚が建てられる理由があった場所であった可能性が考えられ、広山寺建立以前に寺院、或いは居舘があったことを想像してもいいかもしれない。

「広山寺」は、本原に御屋敷や原の町を造るのに伴い、長の十林寺にあった寺院が移され広山寺と改称したもののようであるが、おそらく幸隆が旧領を回復したとき既に十林寺の寺は戦火で荒廃していたものと考えられる。

十林寺は真田本城❨松尾城❩の麓で、地名のほかに「十林寺跡」や「おたっちうの松の碑」等、寺院の存在を示唆する史跡がある。
広山寺は曹洞宗であるが、十林寺に在った頃もそうだったかはわからない。


「御北の塚」
境内の裏手には幸隆の長男・源太左衛門信綱の室・お北の墓がある。
高梨政頼(中野市、箱山城主の娘とあり、井上次郎座衛門の養女となって嫁いだとする説もある。天正八年(1580)二月死去。

「広山寺の墓地には真田信綱夫人の墓と伝わる「御北之塚」がある。信綱は昌幸の長兄で初代幸隆の嫡子にあたる。家督を継いだ翌年、長篠の合戦で戦死したため二代目になった昌幸が、その夫人を丁重に遇したと伝わる。墓は信綱寺にもあるが、ここは夫人の領地が多くあった地域なので、その縁で塚が作られたのであろう」(観光パンフレット)

「於北塚」本村中原組廣山寺の境内にあり。北なる者は真田源太左衛門信綱の妻にして天正三年五月二十一日、信綱長篠に戦死の跡、本村に移り居す。跡地を今御屋敷と云う。横尾村に信綱寺を建立して信綱の霊を慰す。同八年二月十日歿して、廣山寺に葬る。塚上一株の松を植えて標とす。里人於北塚於北松と講す。其松天明中暴風の為に顚仆す、當時住僧寛成英雄の妻貞固の操名、古松と共に朽ちなんを歎じ、一碑を建て其名を千歳の後に傳ふ。(長野県町村誌)

真田源太左衛門信綱は、天正三年(1575)五月、長篠の戦いに戦死している。
お北は、天正八年(1580)二月死去という。

「小県郡御図帳」に、北さま(於北殿)知行などとして合計13筆80貫文があり、本原辺りの信綱知行地と館を於北が相続したものか、真田信綱の館は「真田氏館跡(御屋敷)」とする説が有力だが、既述のように「御北之塚」に隣接して在った可能性もあるかもしれない。

「真田氏館跡」には信綱の女中が住んだと伝わり、長篠の戦いで命を落とした真田信綱を偲んで妻の御北が植樹したとされる「お北の松」がある。


三面にはぎっしり漢字が彫られているが、素人の解読では心許ないので孫引きすると、石碑は寛政7年(1795)に建てられたもので、その碑文には「ここは真田候夫人の埋葬された所で、昔からお北の塚と称している。塚上に松の大木があったが、暴風雨で倒れてしまった。このままでは、そのいわれも何もわからなくなってしまうので、石碑を建て、冥福を祈るものである」といった意味のことが刻まれているらしい。









2019年だろうか、再訪したら丁寧な説明板があった。ありがたや。



2018年再訪
2020年2月改稿。説明板写真追加。

0 件のコメント:

コメントを投稿

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...